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ネットで「論破」したところで現実がいい方向に変わるのか

「論破」という言葉がすっかり人口に膾炙した現代である。
論破というのは、議論をして相手の論の矛盾などをつき、言い負かすことなんかを指す言葉だ。

人間誰しもマウントをとって人より上に立とうとするものである。昔であれば権威とか物理的な力によってマウントを取ることが多かったし、いまでもそういう一面はあろうが、「論破」という言葉を日常的に見かけるようになったのはここ最近の話のように思う。

「論破」の勃興に一役買っているのが、思うにインターネットの世界の登場である。
インターネットは自由にものを言うことができる。同時に周りの人も自由にものを言うことができるので、自分の発信した内容にあれやこれやと批判の声が集まることもある。
インターネットは基本的に匿名の空間であり、基本的に人間の間に優劣が発生しづらい。例えば、教室の中であれば先生には一定の権威があり、生徒はそれに付き従うことをそれとなく強いられるわけだが、インターネット上であれば先生だろうが生徒だろうが匿名であり、そこに優劣はない。

ではどのように優劣を生み出すのかと言えば、他でもない「自由にものを言う」ことによって生み出すわけだ。もっとも、議論を対面でやらないというのはそもそも無理があり、テキスト上の議論というのは理解の齟齬が発生しやすい。
しかしそれでも、ネット上で人間の優劣を付けるためには基本的にテキスト上の議論をするのがいまのところ一般的である。

議論をお互い話を聞いてうまいことできればいいのだが、日常生活も含めた大半の場合、私たちは人の話をそんなに聞いていないし、自分の言いたいことを言ってしまいがちである。それはインターネット上でも同じだ。
議論から外れて人格否定をしたり、一方的に話して気持ちよくなっていたり、あえて相手側の痛い指摘を無視をして相手を言い負かしたような気持ちに浸ったり、議論とは無関係な批判をしたりしてなんとか自分が不利にならないように体裁を取り繕って、いつの間にか「論破した」などとうそぶいている。端から見るにもはやエンタメの様相を呈している。

でも、この「論破」をした気になるのは、実に気分がいいのだ。難しそうな理屈をこねくり回して、それらしく話をして―たとえ、論理が破綻していても―、相手に「勝利した」かのような陶酔が自分の中を駆け巡るからである。
そして同時に、ネット上のエンタメである「論破」を生み出し続けても現実に何も起きない。見ず知らずの誰かを「論破」して「勝利」した気持ちになれる現実的に無意味な行為に時間を投じているだけである。
本来、議論は社会の漸進的な改善に資するものだ。他者に対する説得と納得を以て成立するはずのものであり、「論破」など縁遠い存在である。

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