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私たちはちゃんと3次元に生きられているのか

哲学者のM・ハイデガーというおっさんが、「存在と時間」という本を著している。
内容を読むと一体全体何をいっているのか分からないという代物ではあるのだが、いまになってみると、時間と自己の存在とは、人間にとって実に重要なテーマだとわかる。


最近は一層時間の流れが早い。大学の頃も大概早ぇなと思ってはいたのだが、そんな比ではない。
1日の長さが明らかに短い。圧縮機みたいなものに入った感覚である。

また、

「哲学書もスカートも、めくるのは十代だった」

というキャッチコピーがあるが、私としては十代だったころよりも自己の存在に関心を向けている感覚があるのだ。

社会にとって私はなんであるか、如何様にして生きるが良いのか、そしていかようにして死ぬのか。

過ぎ去った時間に思いをはせながら、そんなふうに答えのない問いを自己に投げ続けて、思索が少しずつではあるが深まるのが人生の醍醐味だ。

大人であれば企業が与えてくれる安定というものにぶら下がるもので、そのときひとは思考を唾棄して、目の前の生活に充足する。
夢を見ろといっている訳ではない。ただ、自己の生がどこに向かうべきのかをきちんと考えなくてはならない、ということだ。

目の前の飲み会が楽しい、目の前の遊びが楽しい、インスタ映えする写真を撮るのが楽しい…と、楽しさに生きるばかり、「一体全体なぜ自分が生きているのか」を考えていないひとは、少なくない。
友人のなかにもいるが、いろいろ聞いてみると、「どうでもいい」「考えてどうなるのか」という答えが多い。まあ確かに、自分の生の意味など考えても意味がないというのも一理ある。
そもそも、考えてなくても生きていけるなら、考える必要などないのかもしれない。

でも、理想が存在しなくば、時間を経て確かに自分が理想とした生に接近しているかどうかを問えない。
そういうものを問わずに生きると壁にぶつかったときに弱い。
浮き足立つような感覚すらある。それは未来が見えないからである。

もちろん、目標を達成したときに再び目標を見つける、というアプローチもあろうし、それはそれで良いと思う。ただ理想もないまま、そういうありかたに邁進すると、人生がただ点と点の連続で、それが線として結ばれているに過ぎなくなる。

理想もなく目標もないひとの人生は、点である。即時的な快楽に身を任せるだけの生になる。人生に繋がりを持てない。

目標があって理念があると、線として人生が紡がれることが増える。
それが自然と面になっていくわけである。
だから自己の存在を問い続ける営みは、最低限3次元までは存在しうるものだ。
心に問うてみよう。わたしたちの精神は果たして3次元に生きられているのだろうかと。

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