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好きになった瞬間などわかりはしない

アニメやマンガの王道ジャンルの一つが「ラブコメ」である。
大概は男性が主人公で正ヒロインや周りの女性とついたり離れたりしながら結局は正ヒロインといい感じになる。

最近のラブコメは恋に落ちるタイミングが心底しょうもない。
作品の設定として始まった時から好きな場合もあるのだが、作品中に好きになるときなんかはちょっと優しくされたとか手をつないだとか一事が万事そんな調子で、恋愛の進展に深みがない。

中学生とかだと、ちょっとしたきっかけでひとを好きになることもあるのだろうし視聴者にはドンピシャなのかもしれないが、年齢を重ねてから見ると「なんだこりゃ」となってしまう。アニメだと話数が少ないため、女性ヒロインがいたく恋愛体質にならざるを得ないという事情もあるのだろうが。

ただラブコメの名作となると、この「恋の落ち方」の質が違う。恋愛の過程をちゃんと描いている。
より正確にいうと、ヒロインが主人公を好きになったタイミングがよくわからないのである。

例えば「めぞん一刻」では、管理人さんが五代くんをいつ好きになったのかについて、完結から30年以上経った今もなお様々に議論が分かれる。
私が「思春期の峠」と呼ぶ「いちご100%」も、この「恋の落ち方」という側面で見ると明らかに一段下がる(それゆえに「いちご100%」は人生ではなくあくまで思春期の峠なのである)。

まあラブコメをあれこれ語っている私も別に恋多き男というわけでもないが、今の奥さんを好きになった瞬間というのは聞かれてみても実はよくわからない。
なぜ好きなのかと言われても好きだから好きとトートロジーの穴に逃げ込む他ないのだ。これは友達であってもなぜ友達になったのかがわからないのと同じようなものである。

フィクションはどうしても尺があるので、しょうがないといえばしょうがないのだが、しかしあれほどまで安直でわかりやすく人を好きになるということにリアリティはない(まあだからこそフィクションなのだが)。

恋のあれこれはとかくわかりにくいものである。だから日夜人は恋についてあれやこれやと議論を重ねて共感したりしなかったりするわけだ。本質的にわかりづらいものを描いているのがラブコメなのだ。

「めぞん一刻」の最終盤では、管理人さんと五代くんが体を重ねる描写がある。漫画は青年誌なのでそこもぼちぼち描かれているわけだが、アニメ版では「私のことだけ考えて…」と管理人さんが言ってから口づけをしてカーテンが閉まり電気が消える、というところまでしか描かれていない。
これを見て「ああ、体を重ねたんだな」と勘づくのは難しい(実際高校生の時に「めぞん一刻」を見たときにはわからなかった)。
でも、それを説明するのは甚だ野暮である。わかりにくいままであるほうがなんだか美しい。

異世界なんとかやSFであればはじめから現実ではないので踏ん切りがつくのだろうが、いかんせんふつうのラブコメとなると話は別だ。
色恋沙汰とはそれなりに大きな要素を占める人生の一部分である。現実と遊離して考えろというほうが難儀である。

ドラマであれアニメであれラブコメを見て「こんな恋がしたい」と思いをはせるのは青春の特権である。
それだけに、作られたラブコメにこそ深く深く人間のこころが映し出されたような作品ーめぞん一刻のようにーあればと願う。

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