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一貫性と信仰を求める私たちだからこそ思考を止めてはならないねって話

言っていることとやっていることとが食い違っているということはよくある。
政治家や学者によくあるけれども、言行不一致の現状を日々目の当たりにしていると言葉を信頼するということがバカげたことに思えてくる。
言葉の持つ価値が日に日に減じられていくのだ。

政治家も学者も、実際に手を動かす立場ではないのでだからこそ言論の一貫性と言うものが問われるわけだが、ずっと一貫して同じことを言い続けている人はごくごくわずかで、日和見主義的にきのうときょうで言っていることが違ったりする。
テレビ受けすることを言っていたりして研究などやっているのかやっていないのかわからない人もいる。

ただ、自分の事となると、言葉と行動の一貫性が意外となかったりするものだ。
強いポリシーをもって生きている人はそんなに多くない。

どうだろう、自分自身の人生を振り返ってみた時に、一度たりとも言葉に嘘をついた行動をとったことはない、と言い切れる人はどのくらいいるだろうか。

ポリシーなどを打ち立てる前にまず目の前の生活の方が大事だし、面倒くさいことはうまく言葉を使いながらごまかす日々がある。

自分ができていないことを他者に求めてしまう弱さが、人にはある。それゆえ、まず自分ができていないことを他人に求めても仕方ないということに気づかねばならない。

政治家や学者も(自己弁護をするわけではないが)マスメディアも「行動と言葉に一貫性などあろうはずがない」という冷めた認識を持っておくべきだ。
自分の外部の存在に期待しすぎているのである。

じゃあ、なんでそんなに期待してしまうのだろうか。
それは私たちが、信仰を欲しているからだ。
さらにいえば、自分の頭で考えることを忌避しているからだ。
一貫性を求めるのは信仰を求めることだ。

宗教はルールでがんじがらめになっているので、言葉と行動の一貫性を求められる(逆に一貫性がないと神への反逆になってしまうのでマズイ)。

神様の啓示を受けている宗教的なリーダーであれば言葉と行動の一貫性があるわけで、そういう人を信じたくなる。こうして宗教が広がっていくのかもしれない。

で、そうした信仰を求める人は、自分の頭で考えるということを避けている。
「これさえ信じておけば」というものがあれば思考せずともいうことを聞いていればそれでいいのだ。

でも、現実を見たら、言葉と行動に一貫性なんてない。

だからこそ頭をぐるぐる回しつづけて信仰を求めずに「この言葉は信頼に値するか」を都度考え続けないといけない。
人間に思考する機能が備わっているのは、このためではあるまいか。

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