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パワープレイで涼をとる茶道

梅雨になりじめじめした空気になり、少しずつ暑くなってきた。これから夏になるともっと暑さが本格的になる。暑さが苦手な私からするとなかなか憂鬱である。

そういえば、かつて学校には扇風機もエアコンもなく、ただただ暑いと嘆き続けるほか方法がなかった。
エアコンと言えば、個人的には職員室だけに置かれており、大人の特権だった。

小学生のころだったか、教室に扇風機がついてみんなで狂喜乱舞した記憶がある。体育の時間のあとには決まって扇風機の動きに合わせて上半身裸で移動していたものだ。
窓を全開にしてとりあえず外気を入れたり、ぬるい空気の中で時折鋭く風が吹くと、汗ばんだ皮膚を涼しい風が撫でたり、ということもあったが、いまではいい思い出である。

いまや学校現場にエアコンがあるというのは当たり前らしい。世の中が良好な環境になる中で、涼を求めて窓を開けることも、扇風機の動きに合わせて体を移動させることも無くなる。
そして風鈴の音に耳を傾けるなんて、なおさらだ。

世の中が便利になっていくことで喪われていくものに、いつしか人は一瞥も投げなくなる。
それがたとえ身近にあったとしても、そうして喪われたことにすら気づかなくなって、喪われたものは人の記憶からも無くなっていく。

以前、お茶の稽古で夏にかけられていた掛け軸が、墨絵でだいぶ空白の多いものだった。暑さに浮かされた頭でぼーっと見ていると、お茶の先生は「この掛け軸の空白は水面です。絵の余白で涼をとってください」と言われた。
いくら何でもパワープレイすぎるだろうとは思ったのだが、そこまでしてまで何とか涼を取ろうとする先人の知恵のようなものには恐れ入る。

茶の世界では基本的に温かい湯を常に沸かしているので、実はもてなす側というのは結構暑い。そこまで思いを至らせると「もてなしのために掛け軸でこんなにこだわってもらって…」という気にもなってくる。
自分が暑いか涼しいかということではなく、相手方の心を斟酌すると自然と涼も取れるという心理なのかもしれない。

伝統の世界というのはこうした「いまや喪われたもの」への思いを想起させてくれるきっかけでもある。伝統にはだから価値があるのだろう。
便利な世界に生きる私たちにも、ふと風鈴の音に耳を傾けてみて涼しさを感じられる感性があれば、と思う。

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