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万国のメンヘラよ、立ち上がれ!

誰しも、人生を振り返ってみればいろんな人に出会ってきた。
すれ違ってきたたくさんの人たちのなかで、「会いたい」と思う人と「そうでもない人」に分かれる。

「嫌いだな」「興味がないな」「つまらないな」――と、感じる人に当然ながら「会いたい」と思うことはない。

「会いたい」と思う人は、仲良しの友人、一緒にいると安心したり楽しかったりする恋人なんかだろうか。
折角生きるなら、「あなたに会いたい」と思われる方が人徳があるというものだ。
そして、そういう風に会いたいと思われることは、自分の自信にもつながったりする。

つまるところ、ひとは誰かからの邂逅を求められる存在になるべきなのだと思う。

もちろん人に媚びる必要は全くない。
お互いの間を媒介するものが友情でも愛情でも信頼でも羨望でも尊敬でも魅力でもなんでも構わない。
とにかく人に「会いたい」と思わせる何かが必要で、それを磨きあげていかねばならない。


かたや、往々にして人は孤独である。
孤独であり続けるばかりで誰にも「会いたい」と思われないというのは困った話だ。
それは他者との関わりを拒む孤独である。

孤独の中にも他者の「会いたい」という欲求を生み出せるだけの強い意志や魅力がなければ、人は孤独になったが最後日の目を浴びず腐っていく。
誰かによって求められていることを感じなければ、存在意義を持つことは難しいのが実情だ。


そして、孤独である人の中に、「とにかく誰かにあいたい…!さみしい…!」という人もいる。時々そんな風に思うことはあるけれど、恒常的かつ極端に孤独を忌避する人を私は「メンヘラ」とこっそり呼んでいる。
自分に存在意義を感じられず、己への承認が薄いためにこういう事態になってしまう。

こういうひとの目線は、限りなく内側を向いているので、自分が「会いたい」と思われることに関心がある。外側を向いて「会いたい」と思わせることに、関心はない。これは大きな違いである。

外を向いているからこそ、内なる自分への価値が初めて生まれると私は思う。そこで初めて己の内側をみつめて、見えるものがある。
人と比べて意外な自分の良さがわかったりする、といったことはその好例だ。
外をむくことは、めぐりめぐって自分で自分を承認する材料になったりして、上記したようなメンヘラちゃんにならないための一助となるのである。

最初から内側をみていても、漠として何も見えないことが多い。自分の世界だけでとどまっていれば、世界が狭いのはそりゃ当たり前である。

英国の大哲学者であるバートランド・ラッセルが著した『幸福論』で「自己内部のものに関心を向けてないで、外に関心を持って活動的に頑張るのが幸福なんやで」というようなことをいっていたが、本当にそのとおりである。

会いたいと思われたい、ではなく、誰かに「会いたい」と思わせるだけの魅力を得ねばならない。
結果として会いたいと思われず「そうでもないひと」になってしまうのであれば、それは結局のところ、自分に力がないのだ。

承認を求めるのではなく、まずは自らの足で立つ強さが必要だ。
そのうえで、自分が会いたいと願う人に会い、そして会いたいと思われたひとが歩み寄ってくるようにしないといけない。
今こそ必要なのは、「脱・メンヘラ」革命である。
万国のメンヘラよ、立ち上がれ!

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