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【小】嘘ムリエ

 ある実業家がいた。その実業家は嘘の神に愛されたような嘘つきの天才で、ありとあらゆる嘘を巧みについて一代で財を成した。ただあまりにも自分が嘘をつきすぎたために、遂には周りの人間が言っていることまでもが全て嘘に聞こえてしまうようになり、極度の人嫌いになった。

 いま、彼が信頼できるのは犬たちだけだった。彼は都会の一等地に大きな庭付きの豪邸を建て、そこで犬を三十匹飼っていた。彼は遺産の全てを犬たちに相続するつもりであるほど犬たちを溺愛していた。彼曰く「人は嘘をつくが、犬は嘘をつかない。その上澄んだ真っ直ぐな瞳で私を見つめて、信頼を示してくれるのだ。」とのことである。

 

ある日、その実業家を尋ねて一人の中年男性がやって来た。男はとある会社の土地開発部長で、どうしても実業家の所有する土地の権利を手に入れたいのであった。

「失礼を承知でお誘い申し上げます。先生は大変な美食家であるとお耳にしたもので。実は、究極のマリアージュを追求し、完成させたレストランがあるそうです。どうですか、ご一緒に。」
「ふん。マリアージュというと、ワインかね。専属のソムリエでもいるのか?」
「ええ、勿論。しかし唯のソムリエではございません。何とワインではなく『美味な嘘』をサーブするソムリエなのです。」
「は?嘘を?」
これには実業家も面食らった。
「百聞は一見にしかずといいます。私が嘘を言っているかどうか、そのレストランに行ってから考えても遅くはないと思いますがどうですかね。」


 こうして実業家は、男に促されるまま疑い半分でタクシーに乗った。そのレストランは郊外にあった。山道を分け入っていくと、まるで博物館のような重厚で大きな建造物が現れた。日はすっかり暮れて、荘厳な彫刻があしらわれた玄関扉の両隣に据え付けられた古い型の街灯が妖しく光っている。

 重い扉を開け中に入ると給仕がうやうやしく二人を出迎え、上着と荷物を預かった。そして彼らは広間の突き当たり、大きなステンドグラスの下の座席に案内された。彼ら以外にもちらほら客はいて、めいめいに食事と酒を楽しんでいるようであった。

「豪華絢爛ではあるが、よくあるレストランと大差ないな。」
「いえいえ先生。きっとこれからですよ。」
 席に着いて開発部長の男がそう言うと、それが合図であったかのようにどこからともなく、ベストを着て長い腰エプロンを巻いた長身の男が現れた。黒髪を整髪料できっちりと撫で付けたその男は狐目が特徴的で、若者のようでもあるし、かといって老人とも見えなくはない奇妙な印象だった。
「ようこそ、レストラン・マンソーンジュへ。私、専属嘘ムリエの狐井(きつねい)と申します。当店では食事とワインのマリアージュではなく、食事と嘘のマリアージュをお楽しみ頂けます。上質な嘘ほど美味なものはありませんからね。これは究極の美食を追求した結果なのです。」
疑い深い実業家もこの意見には納得せざるを得なかった。
「では、すぐに前菜と一杯目の嘘をお持ちいたしましょう。」
そう言って嘘ムリエ・狐井が運んできたのは色とりどりの花びらが散らされたゼリー状の料理と、一見普通のワインボトルとワイングラスだった。
「こちら、木苺のジュレになります。マスカルポーネチーズをベースとしたムースを添えておりますのでそちらと一緒にお召し上がりください。そして、一杯目の嘘はこちらの『プルミエ・ラムール』、フランス語で『初恋』という名前の嘘になります。」

 狐井は鮮やかな手さばきでコルクを抜き、ボトルの底を持ってグラスに嘘を注いだ。そうして男たちは初めて嘘の実体を見たのだが、それはなかなかに不思議なものであった。まず、嘘は液体なのか気体なのかはっきりしない。ちょうどその間の状態というか、まるで薄桃色に色づいた雲のようだった。
 実業家がグラスを手に持って少し揺らすと、熟れる前の果物のような甘酸っぱい香りが広がった。ジュレを口に含んでから、その味が舌に残っているうちにとおそるおそるグラスに口をつけた。
「ほう。これはなかなかにこの料理と合いますな。狐井さんといったか、あなた。この嘘はいったいどんな嘘なんです?」
「こちらの嘘はですね、とある少年が母親に初めてついた嘘になります。初めて好きになった少女とできるだけ長くふたりきりで過ごしたかったのでしょう。習い事のピアノ教室へ行ってくると嘘をつき、公園の柏の木陰でその彼女と話していたのです。」実業家は手を叩いて感心した。「なるほど、なるほど。道理でみずみずしいわけだ。」
「どうですか先生、すばらしいでしょう。気に入っていただけそうですかな。」


 それから、コース料理と共に数々の嘘が運ばれてきた。実業家の男はすっかり上機嫌になり、饒舌になった。
「おい、君。このようなレストランを教えてくれて有難う。分かってはいたが、嘘とはやはり美味なものだな。それを舌で味わえるとは。」
「そうでございましょう。」
「こんなに愉快な気持ちになったのは久しぶりだ。どれ君に、嘘をつくときの極意でも伝授しようかね。」
「極意があるのですか。」
「ああ。いいか、一度しか言わないぞ。他人に嘘をつくときはまず自分自身を騙すのだ。」
「と、いいますと。」
「嘘を嘘だと思うから嘘になるのだ。嘘を自分で真実だと思い込めば、嘘をついている気分にはならない。そうすれば、演技も自然なものとなり、結果うまく他人を騙すことができるのだ。」
「そういうものですか。」
そこへ狐井がやって来た。
「お客様、お待たせいたしました。こちらがメインの肉料理である鹿肉と茸のコンフィになります。こちらのお料理には赤ワイン……ではなく、真っ赤な嘘を。」
「おお、真っ赤な嘘とは上手く言ったものだな。それは一体どんな嘘なのだ。」
実業家の男の質問に対して、狐井はワインボトルのエチケットを見せながら答えた。
「こちらの嘘は『アン・ダルメシアン』という嘘になります。この嘘が傑作でして。お客様はペティグリーペット詐欺というものをご存じですか?」
途端に実業家の表情が曇った。
「ご存じありませんか?では、ご説明いたしましょう。ペティグリーペット詐欺というのは血統書付きのペットを利用した詐欺なのです。例えば犬を高値で売りつけたいお客がいるとしますよね。そのお客に犬を紹介しているときに、新たに別のお客を呼びつけるのです。勿論このお客はグルです。すると新しい客が『見てください、この子犬はダルメシアンの中でもぶち模様がガラパゴス諸島のような形になっている。こういった子犬は成犬になると価値が上がるのですよ。これは是が非でも手に入れたい。』と言うのですね。それを聞いた最初のお客は、高い金を払ってでも犬が欲しくなる。この嘘はよくできた嘘で、バランスが良くエレガントな味わいです。」

 それを聞いた実業家の男はごくりと固唾を飲んでから言った。
「これはもしかして、私がついた嘘ではなかろうか?」
すると狐井は快活に笑いながら、
「何をおっしゃいますか、お客様。嘘というのは人間誰しもがつくものです。ここにある嘘のストックは、世界中から集められてきておりますので元々誰がついた嘘なのかなど分かりっこしません。似た嘘をつく人もございましょう。」
と答えた。実業家の男は「ああ、そうか……。」と一度俯いたが、嘘と肉料理に舌鼓を打ってまた機嫌をよくした。


「では、こちらが最後の一杯になります。」
そう言って狐井が持ってきたワインのエチケットには美しい筆致で“le mécène”と書かれていた。狐井はそのボトルを開けて一度デキャンタージュしてから、美しく磨かれたうりざね型のグラスに注いだ。最後の嘘は蜂蜜色をしていて、グラスの向こう側が見通せるほどに澄み切っている。

 実業家の男は、この究極のコースを締めくくる嘘はどのような味わいかと期待に胸を躍らせながらその様子を眺めていた。開発部長の方はというと、きっといい印象を与えられたので商談がうまくいくはずだ、この私の素晴らしい働きに対してはいくらボーナスが出るだろうかとそのことばかり考えていた。

 二人の男はほぼ同時にグラスに口をつけた。そして、ほぼ同時に、
「うっ。何だこれは、不味い!」
と声を漏らした。

すると狐井は澄ました顔で、
「左様でございましたか、お客様。実はこちらの一杯のみ、嘘ではなく真実だったのでございます。完璧なコースを追求した結果、最後の食後酒のみ嘘ではなく真実をお出しすることになりまして。それがまた嘘を引き立てるための良いアクセントになるのですが、お客様はそれを苦くお感じになられたのですね。」 
 営業部長は憤怒したが、実業家の男はそれを片手で取り押さえながら言った。
「まあまあ、落ち着きたまえ。なるほど、ユーモアが効いているじゃないか。一本取られたね、まったく……。確かに、真実ほど苦い。この世知辛い世の中だ。
では、一体その真実とは何なのかね?」
「それは、お客様はご存知にならないほうがお幸せかと……。」
そう言って、狐井は素早くワインボトルを下げようとした。するとすかさず実業家の男が、
「おお、冷房が効いてきたな。少し冷えるようだ。君、預けた上着を持ってきてくれ。直ぐにだ。」
と言った。狐井は手にしていたボトルをいったんテーブルに置き、上着を取りに席を外した。その隙に実業家の男はボトルを手にしてエチケットの裏面を見た。
「やはり書いてあるな。あの男、ボトルの裏面をちらちらと見ながら話していると思ったのだ。なになに?『都心の○○に豪邸を持つとある実業家についての真実』だと……。『その実業家と、彼が飼っている三十匹の犬たちについて。犬たちは、彼のことを全くもって信頼などしておらず、単に美味い餌と安心できる寝床を提供してくれるただのパトロンだと思っている。三十匹すべてが、漏れなくそう思っている』––」





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