見る人の話1
『時形図』の制作過程や、その源となったオフィスマウンテンの作品について書いていきます、の続きです。
前回まではこちら
①「上演の話」https://note.com/0kdhyt/n/nf18ba26a9cad
②「テキストの話」https://note.com/0kdhyt/n/nef3dfa3f1fda
③「テキストの話2」https://note.com/0kdhyt/n/n7724c1cab954
④「振付の話」https://note.com/0kdhyt/n/n60f4d53136fc
⑤「振付の話2」https://note.com/0kdhyt/n/n594fa4574bf6
⑥「振付の話3」https://note.com/0kdhyt/n/n765b66cf6c48
前三回で振付の話から、オフィスマウンテンにおける言葉と身体の関係について書いてきましたが、「発話」という問題にはほとんど触れていませんでした。発話こそが、書き言葉を生身の身体から音声的な現象として、場に放つ行為なわけですが、声という現象が、自分には正直よくわからない部分があるんですね。
声は私のものでありながら私のものではない、そういう意味では身体に似ている。鏡ではなく映像に映る自分の体と同じように、録音した自分の声は私の声とは到底思えない。しかし厄介なのは、声は出せば常に自分の耳に聞こえてしまう、私の声として。発声とその聴取のサイクルにおいては、すでに鏡が身体に内蔵されてしまっている。どうやったら声を発動する意識と、声の発生をずらせるのだろうか。
いま、声をどのように使用するかというのは、私にとって大きな問題です。作業として意識できるのは次のことくらいです。
◇声の方向・宛先を明確にする。人に向けるのか、物にぶつけるのか、自分の体に貼り付けるのか。
◇声を張らない。大声は意識と身体をひとかたまりにしやすい。
◇発話しながら、自分の声を自分で聞く。
この他にもなにかいい方法はないものだろうか。自分の声を録音して、それと会話したりするという話を聞いたことがあるけれど、どうなんだろね。
さて、前回までに書いてきた話だと、オフィスマウンテンは「テキスト=書き言葉」と「身体」の関係をつくり変えるための実践的な方法を発明していると思いますが、作品を発表する段階になると、どうも「発話問題」というのが残る気がします。一歩間違えれば、「テキストで身体がつくれるのだったら、発話しなくてもいいじゃん」というところまでいってしまいかねない。しかし、テキストは舞台上の俳優による発話によってしか、鑑賞者に了解されない。だから、俳優はそれを声で伝えにいかなければならない。この時、俳優は分裂した仕事を行っています。一方で、与えられたテクストと〈私〉の身体を、「練り物」として一回ぐちゃぐちゃにした上で彫塑しなければならならない。一方で、テキストを鑑賞者に届けるための「乗り物=鳴り物」(巷では〈役〉と呼ばれたりする)として、壊れた道化みたいに喋らなければならない。黙読と音読を同時にやれって言われてるみたい。
ついに「演劇」という問題にぶち当たってしまった気がする・・・。
なんでオフィスマウンテンのやっていることは「演劇」なんでしょうか?これは「見る人の話」を考える上で避けては通れない問題です。見る人は聞く人です。そしてもちろん、それ以上なんだけど・・・。
話の枕のつもりが長くなってきたので、今日はここで切ります!(つづく)