振付の話2

『時形図』の制作過程や、その源となったオフィスマウンテンの作品について書いていきます、の続きです。

前回まではこちら
①「上演の話」https://note.com/0kdhyt/n/nf18ba26a9cad

②「テキストの話」https://note.com/0kdhyt/n/nef3dfa3f1fda

③「テキストの話つづき」https://note.com/0kdhyt/n/n7724c1cab954

④「振付の話」https://note.com/0kdhyt/n/n60f4d53136fc


前回書いたことは、実は「みんなで身体をよく観察しようね」なんていう生易しい話ではありません。

今、より一般に芸術の問題として捉えてみると、「素材=物は抵抗する」ということです。画家は画材屋で、個色の絵具それぞれの色の抵抗を感じます。アトリエで、キャンバスという支持体のざらつきを感じます。絵画の垂れに重力が作用します。彫刻家や陶芸家は、木や石や土から、それらの質量がもっている情報に拮抗されながら、形作ります。言葉だって抵抗します。書き手は他者の読みを制御することはできません。文字は見続ければ崩れていきます。etc...

素材=物は作り手に従順な、コンセプチュアルに操作可能な物質ではありません。透明ではないのです。

身体もまた透明ではありえません。そのことを他者から見られることによって発見するのです。自らの身体所有感を、他者の言葉によって「私ではないもの」に変えていく。私はこのことはいくら言っても言い足りない。演劇のことはよく知らない。けど、上演というのは表象行為ではなくて、制作的な産出行為なんだと。

けどね、「アートは結局プレゼンテーション問題」は絶対ある。まあ今は、穴吊るしの刑に耐えよ、海底、それは苦しい。表現をし続けている人の喩には密度があるが、私はまだスカスカだから。直喩さえままならない状態で言葉を書いているわけです。

さて、「読み」と「振付」の関係性についてですが、これについては私自身わからないことのほうが多い。わからないことについて書こうとしてる。

まず、太一戯曲においては、「振付の種」みたいなものがあちらこちらに埋めこまれています。それは「動け」という指示語ではないけれど、具体的に読み手がその部位を意識できる身体の箇所や、身体の状態が示されているということです。

例えば、「その鶏が目の前で首をはねられて胴体と首が離れてどうなったと思う?胴体はびっくりしてその辺を走り回ったんですよ。けっこう長い時
間。私はずっと自分の鼻を触っていました。鼻が取れて無くなったと錯覚しちゃったの。」『NOと言って生きるなら』

この文の中には「首」「胴体」「鼻」が出てきますね。しかも、〈私〉は「首」と「胴体」が切断されている状態を見ながら、「鼻」と「首」を取り違えた上に、「鼻」を触りながら「鼻」が無くなったと認識している。ちょっとバグってますね、身体の状態としては。因みにこの台詞の人は女と指示されていて、男の私が演りました。オフィスマウンテンは、この文章を「こういうことを言っている」女の人、としてはやらないのです。だから、この女の人がどんな家族関係でどんな精神構造を持っているのか、というのはどうでもいい。テキストが持っている情報に愚直に付き合うのです。言葉を依頼主としては扱いません。身体は抵抗します。そのテキストが含んでいる情報をどれだけ最大化して、それに抵抗して、立体的なものを立ち上げられるか、ということだけをやっている。言葉と身体の物質的な掛け算です。イメージで語らない、動かさない。イリュージョンじゃないんですよ。

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身体の箇所の「名」と実際の部位とはかならずしも一致していません。もちろん言語によっても違う。「肩」と「shoulder」では一致している範囲と、一致しない範囲がある。「肩こり」を示す言葉が英語には存在しないといえばわかりやすい。しかし、言語と認識の大問題は今、それはそれとして置いておきます。「肩」や「膝」という言葉は関節的なスポットなのでまだ意識しやすいが、「胴体」や「背中」などは広すぎて少し戸惑う、「横隔膜」や「括約筋」はどうか。からだ言葉にはムラがあるわけです。

私は「横隔膜」は胃の下の膜で内蔵を支えているんだよ、と人に教えてもらったが、本当なんだろうか。しかし、しゃっくりが出る時の震源地というくらいの認識はあります。しかも、息を止めて「横隔膜」を押し付けるように意識するとしゃっくりが止まるという術を伝授されて、私はそれを体得しかけている。この時ポイントは脳に「死ぬぞ」(「脳」に!)というメッセージを送りながら、「横隔膜」らしきところを下に押し付けるように、息を止めながら力を入れ続けることです。私の「横隔膜」との付き合いも大分変わったものです。これで止まることもあります。勝率五割。

身体はもとから分節されているのではなく、言葉によって切り閉じられています。言葉によって切り分けられながら、身体はバラバラ殺人死体のようにあちこちに散ってしまうのではなく、経験がその部位の感覚として閉じられているということです。であれば、設計された言葉の配列と、その実装化(バグを含め)によって、その切り閉じの範囲をどんどん変化させていくことができるかもしれないわけです。それこそが、「頭」=「言葉」と「胴体」=「身体」が離れ、身体だけが動き続けるというような状態なわけです。そのためには、言葉を捻じ曲げて、うまく使用する必要があるのです。

太一さんはテキストのことを「ボルダリングのウォール」に例えます。ホールドは設計されているから、読み手はそれをフリークライムしろ。落ちたっていいから何度でも登れ。登れたら別の登り方をしろ。登りにくく登れ。まさに人工的な障害物としてテキストを考えている。舞台が複雑に設計された壁に見えてきましたね。ただ、ボルダリングジムと違って演劇の場合は、複数人が同時に、同じ壁を違うやり方で登ってるんですけどね(ジムは危ないから必ず一人ずつ)。しかもそれによって、設計されたはずの壁がいつのまにか変形している(ように見える)かもしれない。壁ではないものになっているかもしれない。過酷なのは、壁から落ちてしまったときのセーフティーマットが俳優たちには用意されていないことでしょうね。

最近リアルボルダリングしてないなー。ここまで長々と書いてますがつくった「振付」を全然大事に扱わないようにするのが次回の話です(笑)



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