上演の話

『時形図』の制作過程や、その源となったオフィスマウンテンの作品について書いていきます。

今回上演する『時形図』の台本となるテキストは岡田が執筆しました。複数の時期にわたって書いた文章を組み合わせて作っています。その中には過去に書いた日記の一部なども含まれています。

オフィスマウンテンに参加するようになってから、山縣太一の文体を練習するために日記をつけたりしていました。ただの駄文ですがこちらからご覧いただけます。
https://docs.google.com/document/d/1i5QQQfNQenjjRgAFq59PW4F_jW6MiMOxS5RudLM1YeM/edit

基本はノートや紙切れに手書きで書いているので、パソコンに打ち直しているのはその一部です。2018年頃から自分のテキストを自分で上演しようと考え始め、何か素材を貯めようと思って断続的に続けていました。今回の作品にもこの中からごく一部を使っています。あと、オフィスマウンテンのブログに載っけたコメントにも使っていたりします。ただ、『時形図』では、こういう韻や言葉の自動運動みたいな力で進んでいくテキストは使いません。


2019年に『NOと言って生きるなら』という作品に出演した時に、戯曲に対して「マイライン」というものを書きました。戯曲の言葉から、連想的に自分の記憶を引っ張り出してきて書いたテキストです。今回の『時形図』ではこのマイラインを書きながら考えたことが反映されています。しかし、その話をする前に、『NOと言って生きるなら』について触れておきます。

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『NOと言って生きるなら』では戯曲とマイラインを同時に使って上演する、という離れ業のような、言葉で言ってもなかなか伝わりづらい作業を身体でやっていました。ここに、さらに稽古の間に取り交わされた、身体の動きへの指示である複数のマイナールールが加わります。

この状態を私なりに例えるなら、自分の身体を現在形でPremire Proのような編集台だとして、複数のライン(ビデオ1、ビデオ2、ビデオ3・・・、音声1、音声2、音声3・・・)の組み合わせを処理していくという感じです。ただし、ここで複数の作業は、常にその遂行が安易に達成可能なようには設定されておらず、確実に数々の失敗を含みながら続いていきます。『NOと言って生きるなら』の場合、課題を完遂しきらない編集台が舞台上に四台ありました。さらに、編集台は人間なのでそれぞれの年式や型式による癖、指向性は全く異なります。

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これはある意味、日常という現象の複雑さそのものをつくり直しているとも言えます。自分が埋め込まれている環境や対面している相手に対して、情報処理をしながらリアクションしていく。ただし、日常においてはその編集作業のほとんどが自動化、あるいは習慣化されています。複雑さの中にすでに埋め込まれていながら、安定している私にできるのは、行為を躊躇することくらいです。行為の選択はだいたい事後的に言語によって、自分の意志だったと記憶では再編集されたりしますが。舞台上では自動化されている編集と行為を、その場で意識的に実行しなければなりません。それは身体の隅々までコントロールするとかいう話ではなく、普段の自分の身体とは異なる意識のムラ、群れのような状態をつくるということです。そのような状態になれなければそれは日常の延長であって、上演ではありません。だから上演はむしろ、安定できない状態で私を作動することです。

演劇とか上演というものは、それが嘘であるとか、それがフィクションであるということによってはじめから日常から分離されて線引きされている行為ではなく、日常の複雑さへの自覚と、いろいろなチャレンジを含めたその再構成による、濃度的なものであるとしか今の私には思えません。だから、稽古場でやっていることも練習だけど上演です。今のところ最低限そこで必要なのはテキストと身体、のみで十分です。

次回は自作についてもっと書きます。

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