振付の話
『時形図』の制作過程や、その源となったオフィスマウンテンの作品について書いていきます、の続きです。
前回まではこちら
①「上演の話」https://note.com/0kdhyt/n/nf18ba26a9cad
②「テキストの話」https://note.com/0kdhyt/n/nef3dfa3f1fda
③「テキストの話つづき」https://note.com/0kdhyt/n/n7724c1cab954
前々回に「マイラインをどのように振付に転位するのか」と書いていたのですが、すっかり忘れていました。オフィスマウンテンのやり方から学んできた、岡田馬場流の振付とその使用法について話をします。
その前に、ここのところちょこちょこ人に説明をするための文章を書いていて思ったことを書いておくと、数日前に書いた自分の文章に対して、全く辻褄が合っていないな、と我ながら。だから、読み直して書き直したりしているのですが、規範的に文章を書くという行為はそういう辻褄合わせなんだなあ。論理的な言葉で、やっていることを整理する作業に集中していると、稽古場で身体が一つのタスクにしか反応できなくなることがありました。疲れもありますが。線的な言葉で考えすぎると、散らかった認知とそれをもとにした作業のマルチラインが押しつぶされて、表現が非常に乏しいものになってしまう。でも、書かないと人には伝わりませんからね。行ったり来たりです。彫るように書く身体に私はなりたい。
オフィスマウンテンの稽古場では、まず俳優の固有の体が持っている癖、習慣の型のようなものを露わにするために、台詞が入っている身体でとりあえず俳優に動きながら台詞を発語させます。先に「演技態」や「役」のような服を着せたりはしません。裸です。裸までは行かなくとも着乱れた状態です。脱げない人もいますけどね。半裸のおじさんもいます。この作業は読み合わせとも違います。人に見られながら、身体を伴って発話してもらいます。
また脱線しちゃうけど、このやり方とオフィスマウンテンの「男性性」、「ホモソーシャル性」は無関係ではないと思います。ノーメイクが至上ですから。ということは、あえてオフィスマウンテンから化粧、装飾としての着衣、そして装飾によって自意識が芽生える、という過程について考えたりできるかもね。
裸の発話は寄る辺立つところがないので、身体は無自覚にに自らの習慣的な動きに頼ります。これを捨てないで、観てる人たちがトレースして、型として取り出しておきます。取り出した型は予熱が冷めないうちに、太一さんは名前をつけたりします。ある身体がもっているローカルな動きを、復数で共有するためです。名付けることによって、それは承認されるのです。共有された型は、あとで出汁が出なくなるまでみんなで使いまわします。食べて栄養にするわけではありません。型を産んだ本人は、それ以降、その動きに対して無自覚ではいられなくなるでしょう。なので、意識的に型をずらしたり、禁止したりする。ずらしや禁止の作業を怠れば(慣れを許せば)、その俳優に「上演」を立ち上げるのは無理です。難しいところです。赤ん坊には戻れないから。
これがテキストとの最初のご挨拶です。はなから相手のことをわかろうなんてのは無理なんすよ。こっちを曝け出してから相手の懐に潜り込まないと。このイニシエーションを終えたら、「読み」と「振付」という、新しい関係性に入っていくわけです。(つづく)