小瀧葉平

小瀧葉平

最近の記事

【小説】蟹

 今年の夏、早稲田界隈では、蟹をよく見かけた。マッチ箱くらいの大きさの赤黒い蟹である。その蟹が、町中いたるところを歩き回っていたのだ。  僕が最初の一匹を見たのは、六月の半ば、曇り空の月曜日のことだった。あるいは、彼らはずっと以前からそこにいたのかもしれないが、それを確かめる術はない。その日の午後、馬場下町のビルの二階にある喫茶店でコーヒーを飲み終え、店を出ると、路上へ下りる屋外階段の中程に、なにか小さなものが動いていた。生き物のようである。遠目にはカナブンのようにも見えたが

    • カヌレを食べた日

      カヌレを食べました。 おしまい。

      • 【小説】ヌャンペフの日

         今夜はヌャンペフが食べたい、と彼が呟いた。私が布団に潜ったまま黙っていると、ヌャンペフが食べたい、と彼はもう一度呟いた。 「どうして急に、ヌャンペフなんか」  私は顔だけを布団から出して、返事をした。ベッドの脇の小さな窓から差し込む朝日が眩しい。彼は一足先に起きて、二人で暮らすには少しばかり手狭な寝室の隅で、ワイシャツ姿でコーヒーを啜っていた。 「ちょうどいい時期だろう。今日なんて、まさにヌャンペフにうってつけの日だよ」  私はそうとも思わないが、彼がそう言うのだから、今日

        • 回転寿司、肥大する自意識

           高級フレンチには手が届かないが、一杯のかけそばを家族三人で分けあわなければならないほど貧しい暮らしをしているわけでもない。たまに外食をするなら、回転寿司くらいがちょうどいい。そう思っていた。  ところが、この頃は無邪気に回転寿司を楽しむのも難しくなってきた。他者のまなざしが気になるのだ。  たとえば、今、ここが、某回転寿司チェーンの店内であったとしよう。僕はカウンター席に着いて、ベルトコンベアの上を一列になって流れるたくさんの寿司を見つめている。行列の中にえんがわの皿を見

        【小説】蟹

          「ぬ」を持ち歩く

          もっとも可愛らしい平仮名はなんだろうか。 僕は「ぬ」だと思う。 まず、「ぬ」という音の響きがかわいい。 それから、形状が小動物みたいでかわいい(下図参照)。 あと、「ぬいぐるみ」の「ぬ」だったり、「いぬ」の「ぬ」だったりする。 まあ、可愛らしさの理由なんて、どうでもいい。 とにかく、僕は「ぬ」が好きなのだ。寿司と同じくらい好きかもしれない。 ああ、なんて可愛らしい「ぬ」。 「ぬ」とずっと一緒にいられたらいいのに……。 …… …… …… というわけで、「ぬ」を作

          「ぬ」を持ち歩く

          犬の代わりに食パンを飼いたい

           町をぶらついていると、前方から一本の食パンが歩いてくるのが見えた。トーストを十五枚は作れるくらいの大きさの食パンである。パンが歩いているとは、不思議なこともあるものだ。ひょっとすると、ここ最近の暑さのせいで、イースト菌が異常な発酵を起こしたのかもしれない。そう思って近くまで寄ってみると、それは食パンではなく、一匹のふかふかしたウェルシュ・コーギーだった。しっかり飼い主も連れていた。  犬を飼ってみたい。ときどき、独りで過ごす夜などに、そんなことを考える。しかし今の僕には、ド

          犬の代わりに食パンを飼いたい