【小説】蟹

 今年の夏、早稲田界隈では、蟹をよく見かけた。マッチ箱くらいの大きさの赤黒い蟹である。その蟹が、町中いたるところを歩き回っていたのだ。
 僕が最初の一匹を見たのは、六月の半ば、曇り空の月曜日のことだった。あるいは、彼らはずっと以前からそこにいたのかもしれないが、それを確かめる術はない。その日の午後、馬場下町のビルの二階にある喫茶店でコーヒーを飲み終え、店を出ると、路上へ下りる屋外階段の中程に、なにか小さなものが動いていた。生き物のようである。遠目にはカナブンのようにも見えたが、近づいてみると、昆虫ではない。扁平な体から、鋏が二本生えていた。明らかに蟹だった。なぜこんなところに蟹が? ここは海から何キロも離れているし、沢が流れているわけでもない。近くにある水場といえば、コンクリートの護岸に固められた神田川くらいのものである。蟹が住める土地とは到底思えない。いや、ひょっとすると、どこかの家で飼われていたものが逃げ出してきたのかもしれない。それならば、誰かが捕まえなければなるまい。そう考えて蟹のほうに手を伸ばすと、蟹は細い脚を素早く動かし、瞬く間に階段を下りて――転がり落ちて、という方が正確かもしれない――どこかへ行ってしまった。僕はすぐに後を追い、しばらく辺りを探した。しかし、結局、その姿を見つけることはできなかった。
 それ以降、僕は行く先々で蟹に遭遇するようになった。毎週木曜、大学へ授業を受けに行けば、きまって教室の隅をせかせかと這い回っている蟹がいた。また、学内のスターバックスのあたりでは、いつも二、三匹が徘徊していて、卓にこぼれた乾きかけの飲み物(たぶんカフェラテかなにかだろう)を舐めていた。大隈重信像の横でアジビラを配っている連中の足元に五、六匹が群れているのを見たこともあった。大学の構内だけではない。穴八幡宮の境内や馬場下町の交差点で彼らの姿を見ない日はほとんどなかったし、戸山ハイツの辺りを散歩すれば、道行く人に踏み潰された蟹が、必ず一匹はアスファルトの上に干からびていた。早稲田通り沿いにある古本屋では、人間の客よりも蟹の方が多く店内にいることさえあったのだ。彼らがどこからやってきたのかは分からない。しかし、少なくとも、誰かのペットだったものが脱走してきたわけではなさそうだった。どちらかと言えば、彼らは、はじめからそこに生息していたかのように振舞っていた。
 事件が起きたのは――新宿区の真ん中を蟹が歩いているだけでも十分に事件と言えるだろうが――七月の終わり、夏季休業の直前の水曜日だった。その日は朝から普段以上に蟹の多い日だったが、正午を過ぎると、どこからか、今までに見たことがないほどたくさん、何千、何万もの蟹が現れ、すぐに町中を埋め尽くしてしまった。歩道も車道も蟹だらけで、通行する人や車は、それを踏み潰していかなければならなかった。オーストラリアのある島で、年に一度、何百万匹もの蟹が繁殖のために一斉に大移動をするのを、以前テレビで見たことがある。路上を蠢く大群は、ちょうどそれに似ていた。そして、よく見ると、蟹たちはみな同じ方角へ向かっているようだった。戸山公園の方から流れてきた群れは、諏訪通り沿いの飲食店の店先や大学の敷地に溢れかえりながら、北へと行進していた。僕はしばらくその様子を眺めていたのだが、やがて、ふと、それを追いかけてみようという考えが起こった。そうする理由があったわけではない。ただ、どういうわけか、無性にそうしなければならないような気がしたのだ。それで、僕は彼らと同じ方へ歩きだした。
 諏訪通りを少し進み、直交する早稲田通りにぶつかると、群れは信号機の明滅などお構いなしに道路を横断していった。そこを何台もの車が容赦なく通過していくので、交差点の真ん中には轢死した蟹たちが溜まっていた。辺りにはかすかな生臭さも漂っている。夏の太陽が死骸を腐らせているらしい。そして、路上に散乱した赤黒い甲羅の破片と粉々になった白い肉の上を、また、蟹の大群が歩いていく。嫌な光景だった。叩き潰されてぴくりとも動かなくなった虫のあの感じ、あるいは、はらわたを剥き出しにして道端に倒れている猫、いや、それよりもひどいかもしれない。とにかく、どうしようもない恐ろしさが僕を襲った。行進する蟹たちが同族の死骸にまったく無関心でいるのも気味が悪かった。
 死骸の感触を靴底に感じながら、横断歩道を渡り、運良く轢き潰されなかった蟹たちとともに南門通りへ入った。道幅が狭くなったところへ群れがなだれ込み、あたり一面が赤黒い絨毯を敷いたかのようになっていた。足の踏み場はほとんどなく、蟹を踏まずに歩くことは不可能だった。僕は、一歩ごとに、足の裏で蟹が潰れるのを感じた。暑さでぼやけた頭に、くしゃり、くしゃりと、甲羅を踏み砕く感覚だけが鮮明だった。
 暑さと臭いで気がどうにかなりそうだった。汗を吸った服が皮膚にべったりと張り付き、鬱陶しかった。歩いているうちに、そのじめじめとした感触が、なんだか、自分の汗ではなく、潰れた蟹から漏れた汁のようにも思われてくる。僕はできるだけ足の裏を意識しないようにした。だが、足元で鳴るくしゃり、くしゃりという音が、僕の神経を確実に蝕んでいった。そして、次第に、僕が蟹を踏みつけているのか、それとも、僕が僕自身に踏みつけられているのか、分からなくなった。何のために歩いているのかも分からなかった。だが、それでも歩き続けた。引き返そうにも、前も後ろも蟹だらけで、もはやどうしようもなかった。蟹の行列とともに、大隈講堂の前を横切り、都営アパートの脇を抜けた。新目白通りを渡り、細い路地を一歩ずつ進んでいった。
 群れの先頭は神田川へ流れ込んでいた。行進はそこで終わりだった。川を覗き込むと、数え切れないほどの蟹が、コンクリートの護岸を滝のようになだれ落ち、水の中へ溶けている。ちょうど、トイレットペーパーが溶けるのに似た様子である。その先には、もう何もなかった。ただ、溶けても溶けても蟹がやってくるので、どうにもきりがなかった。なんだか拍子抜けのする感じだった。僕は何をしにここへやってきたんだ?
 川面を眺めていると、向こう岸から、
「おーい」
 と呼ぶ声がした。顔を上げると、黒い服を着た女が手招きをしている。
「こっちこっち」
 と女が言うので、橋を渡り、対岸へ行くと、それはどうやら僕の知っている女だった。だが、それが誰であるのか、僕には思い出せなかった。たしかに以前会ったことのある女だという気がするのだが、いつ会ったのか、どこで会ったのか、まるで分からないのだ。
 もう一つ奇妙なのは、女の背後に見覚えのない建物が立っていることだった。さほど古くは見えない木造の二階建てで、一階はなにか料理を出す店のようだった。しかし、この辺りにそんな店があった記憶はない。
「入りましょう」
 女が言った。僕はどうにも気が進まなかった。だが、何も言わず女に従った。そうするのが僕の義務であるような気がした。
 店の中は、やや狭く、いやに薄暗かった。冷房も効きすぎているようだった。木製の丸いテーブルが四つ並んでいて、女はそのうちの一つに着席した。僕もその向かい側に座った。僕たちのほかには客はいなかった。
 しばらくすると、店の奥から印象の薄い顔立ちの男が現れた。店主らしかった。
「蟹をください」
 女が言うと、男は頷き、また奥へと消えていった。
 蟹など、食べる気はしなかった。僕の足の裏には、大量の蟹を踏み潰した感触がまだへたばり付いていたのだ。しかし女は気にも留めない様子だった。
 すぐに皿にのった蟹が二杯出てきた。早稲田にいるのとは違う、手のひらくらいの大きさの蒸した蟹だった。上海蟹によく似ていたが、あれは秋からが旬のはずだから、違うかもしれない。女は、おいしそうだねえ、と言って、一杯を手に取った。そして、ふんどしと背中の甲羅を器用に剥がした。それから、胴体をばきばきと縦に半分に割って、中から溢れた黄色い卵と味噌をうまそうに食べ始めた。
「食べないの?」
 女が言うので、僕も真似をして蟹を手に取り、殻を剥がした。そして、愕然とした。空っぽなのである。卵も味噌も肉も、微塵も入っていなかった。そんな馬鹿な、と思い、脚も一本ずつ外してみたが、これも空である。まるで、誰かが食べた後の殻だけを集めて、それを組み立てなおしたかのようだった。僕は困惑した。そうしている間にも、女は蟹を食べ進めている。
 蟹を持ったまま呆然としていると、例の男が察したようで、新しい蟹を持ってきた。僕はそれを受け取り、もう一度、女がしたのと同じように、胴体を剥いた。甲羅がめきめきと音を立てて外れた。だが、これもだめだった。中には、空洞だけが虚しく広がっていた。なんだか馬鹿にされたような気分だった。
「この店の蟹を全部持ってきてください」
 考えるより先に口から出た言葉だった。別に蟹を食べたいわけではなかった。しかし、店にある蟹をすべて調べてみなくては気が済まなかった。男は困っているようだったが、少しだけ間をおいて頷いた。
 しばらくして、二十杯ほどの蟹が巨大な皿に乗せられて運ばれてきた。僕はすぐさまそのうちの一杯を手に取り、殻を剥いた。だが、やはり中身は入っていなかった。頭にきて、さらにもう一杯に手を出した。しかし、結果は変わらなかった。
「何度試したって、同じだよ」
 蟹の脚をほじりながら、女が言った。
「どういう意味ですか」
 女は答えなかった。そのかわりに、山盛りの蟹の中から一杯を手に取り、剥いてみせた。中には卵がたっぷりと詰まっていた。
 訳が分からなかった。あまりに理不尽だ。ますます頭にきて、僕は、二杯、三杯と蟹を解体した。しかし、どれも一様に空っぽだった。
「いったい、僕が何をしたっていうんだ」
 ほとんど泣きそうだった。たった一口でも蟹を食べなければ、二度とまともには生きていけないような気がした。それでも、剥いても剥いても空である。僕は死に物狂いで蟹を剥き続けた。
「分かっているくせに」
 女がぽつりと言った。だが、僕には分からなかった。なぜ僕の蟹には中身が入っていないのか。この女は何者なのか。何もかも、いっさい分からなかった。分からないから、蟹を剥き続けるしかなかった。だが、自分がなんのために蟹を剥いているのか、それも分からなかった。
 ひたすら甲羅を剥がして、いよいよ最後の一杯になった。テーブルの上には、蟹の殻が山のように積みあがっていた。女はすでに自分の蟹を食べ終え、こちらを真っ黒い目でじっと見つめている。絶望的な気分だった。死刑になるのが分かっていて、それでも裁判にかけられる犯罪者の心理とは、こういうものかもしれない。僕は震える手で最後の蟹を拾い上げた。すると、ほんの少し、中身のない蟹とは違う重さがあった。おそるおそる胴体の殻を剥いた。空っぽではなかった。中には、真っ白な雪が詰まっていた。ひとかたまりの雪。それが、僕にとっての、ささやかな救いだった。
 今、僕に分かるのは、そのときの雪の重みだけである。これからも、きっとそれだけだろう。そして今日も、蟹は早稲田の町を歩いている。



この短篇は、2022年の秋に少数を制作・頒布した某団体の同人誌に掲載しました。転載にあたって加筆・修整をしました。