【小説】ヌャンペフの日

 今夜はヌャンペフが食べたい、と彼が呟いた。私が布団に潜ったまま黙っていると、ヌャンペフが食べたい、と彼はもう一度呟いた。
「どうして急に、ヌャンペフなんか」
 私は顔だけを布団から出して、返事をした。ベッドの脇の小さな窓から差し込む朝日が眩しい。彼は一足先に起きて、二人で暮らすには少しばかり手狭な寝室の隅で、ワイシャツ姿でコーヒーを啜っていた。
「ちょうどいい時期だろう。今日なんて、まさにヌャンペフにうってつけの日だよ」
 私はそうとも思わないが、彼がそう言うのだから、今日はヌャンペフにうってつけの日なのだろう。
「朝ごはん、食べないの?」
 私が聞くと、彼は少し迷惑そうな、しかし、それでいて申し訳なさそうな顔をして、煙草とコーヒーで十分、と答えた。
「それじゃあ、仕事、行ってくる。ヌャンペフ、頼んだよ」
 彼は上着を羽織って出かけていった。部屋の中には、モノトーンで統一されたいくつかの家具と、フィルターぎりぎりまで吸われた煙草の燃え殻と、底にインスタントコーヒーの溶け残りがこびりついたマグカップと、それから、私だけが残された。
 近頃、彼はしばしばヌャンペフを欲しがる。私はヌャンペフを求めて街へ出かけるが、それを見つけられたことはない。そのたびに彼がとても悲しそうな顔をするので、私はなんとなく申し訳なく思う。しかし、彼は決して私を責めない。私が落ち込んでいるのに気がつくと、すぐに、今日でなければいけないってわけでもないさ、とか、そんなことを言って微笑む。だが、私は見逃さない。彼の眉毛の曲線に、悲しみの形がくっきりと表れていることを。

 九月も終盤だというのに、昨晩は寝苦しい夜だった。私は寝汗を流すためにシャワーを浴びることにした。一日に二度も風呂に入るのは不経済極まりないが、汗でべとついた体のまま洗濯したばかりの服を着るのに比べれば、幾分まともだ。
 脱衣所で下着まで脱いでしまったそのとき、リビングで電話が鳴るのが聞こえた。おそらく母だろう。私の気分は憂鬱の底に沈んだ。電話越しとはいえ、裸のまま人と話すのは気が引けたので、バスタオルを体に巻いてから受話器を取った。
「あの、どちら様でしょうか」
「私だよ、私。あんたって子は、母親の声も忘れちまったのかい。誰に似たのか知らないけれど、本当にろくでなしだよ。嫌になるね。ところであんた、今朝は何をしていたのさ」
 案の定、母だった。心底うんざりさせられる。私は電話を発明した人間を呪いたくなったが、それが誰であったか、思い出せなかった。
「今ちょうどシャワーを浴びるところで、服を着ていないんだけど」
 自分が出せる中で一番迷惑そうな声で言ってみた。
「あんた、素っ裸で電話の前につっ立ってんのかい。まったく非常識にもほどがあるよ。服くらい着たらいいだろう。そのくらいしてもバチは当たらないだろうに、本当に馬鹿だねえ」
「いや、タオルを巻いているから、大丈夫だよ。それで、何の用事?」
「それより、服が先だよ。タオルも裸も変わらないだろう。いいから、服を着なって。屁理屈ばかりで本当に嫌になるよ。いいかい、服だよ、服を着てから話しな。電話は逃げないんだから、服が先だよ。いいね、服を着るんだよ」
 仕方がないので、私は保留ボタンを押して受話器を置いた。わざわざ箪笥から服を出すのが面倒だったので、そのままの格好でしばらく待ってから、服を着たふりをして再び受話器を取った。
「ちゃんと着たよ。これでいい?」
「まったく、いつまで待たせるんだよ、もう電話を切っちまおうかと思ったよ。まあ、そんなことはどうでもいいんだけどね、あんた、今日はあの馬鹿亭主はどうしているのさ」
 母は世の中に暮らす人間の大半を嫌っていたが、彼のことはとりわけ気に入らないようだった。もちろん、彼の方も母を好ましいとは思っていないはずだ。
「今日は仕事に行っているけど」
 私はありのままに答えた。
「仕事だって? あんたを放って仕事に行っているって言うのかい。呆れたよ、なんて酷い夫だ。情けないよ、本当は浮気でもしいてるんじゃないのかい」
「そんなことを言ったって、稼がなきゃ食べていけないんだから、仕方がないじゃない」
「知ったことじゃないね。とにかくね、あんたも旦那もそろって馬鹿なんだから、さっさと別れちまった方がいいんだよ。いいかい、このまま暮らしていたんじゃあ、ろくなことにならないからね。さっさと別れちまいな。分かったね」
 返事をするのも面倒になってきた。電話の線を引っこ抜いてしまおうかとも思ったが、もしそんなことをすれば、母はすぐにこのマンションまでおしかけてくるに違いない。
「それより、母さんの方こそ、元気にしてる?」
 私は話題を変えたかった。
「よくもそんなことが言えたものだね。心配なら少しは家に顔を出したらどうだい。あんたたちときたら、今年に入ってから一度もこっちに来ないじゃないか。親不孝者め」
 思うように母の機嫌を取ることはできなかったが、そんなのはいつものことだ。それに、彼と暮らすようになってから実家と距離を置くようにしてきたのは本当のことだった。受話器の向こうで母はまくしたてる。
「私ももう年寄りだからね、あんたらに手伝ってもらわないと、できないことが山ほどあるんだよ。せっかく育ててやったんだから、その分の恩は返してもらいたいものだね。向かいの家なんて、毎週のように息子夫婦が遊びに来て、最近は孫まで連れてくるっていうのに、あんたたちときたら、いつになっても子供はできないし、連絡ひとつよこさないし、人の心ってものがないんじゃないのかい。大体、あんたの馬鹿旦那だって、休みの日くらいあるだろう」
 手伝ってもらいたいことというのは、およそ家の掃除のことだろうと見当がついた。昔から母は整理整頓のできない人間だったから、私が家を出てすぐに、死んだ父が建てた戸建てをゴミ屋敷にしてしまった。最後に帰ったときは、家の外観はなんともなかったのだが、玄関の戸を開けて一歩踏み込めば、動物の内臓をそこら中にぶちまけたような、とても人間の住む場所とは思えない惨状が広がっていた。私と彼は、家中に充満した得体の知れない悪臭と格闘しながら、冷蔵庫に詰め込まれた腐った食品や、壊れた電化製品をいくつも処分した。本棚と思しき空間から「誰にでもできる整理整頓術」なる本が二冊も発見されたときは、苦笑するほかなかった。
「あんたらが休日にどんないかがわしいことをしているのかは知らないけどね、たまには私に顔を見せるんだよ。それが道理ってものなんだからね。今週末か、来週にでも、必ず来るんだよ。旦那も連れてくるんだからね」
 実家へ行くのはできるだけ先延ばしにしたいが、あまり放置してゴミ屋敷を悪化させるのも本意ではない。それに、この電話も、そろそろ切り上げなければならない。シャワーを浴びて、ヌャンペフを探しに出かけるのだ。
「今週は無理だけど、来月中には必ず行くよ」
「必ずと言ったね。言ったからには絶対に来るんだろうね。嘘をついたら舌を引き抜いてやるからね。とにかく、来月は絶対に来るんだよ。旦那にもそう伝えておくれ。ただでさえ、あんたたちは信用できないんだから」
 母はおおむね満足したようで、彼に対する悪口をいくつか付け加えてから、電話を切った。私も受話器を置いた。近いうちに実家で母と直接話さなければならないと考えると、死んでしまいたくなった。バスタオル一枚で部屋にたたずむ自分が、とてもみじめな存在に思えた。私も年を取ったら母のようになるのだろうか。

 シャワーを浴びたら、いくらか気分が晴れた。いつの間にか、時刻は正午を過ぎていた。ヌャンペフを探しに行かなければならない。車のキーを探すのに、少しだけ手間取った。

 昨日に比べると、今日はいくらか秋らしい涼しさだった。私は県道沿いに車を走らせ、この辺りで一番大きなスーパーマーケットに向かった。普段から、生活に必要な物品のほとんどをこの店で調達しているのだ。駐車場に車を停めて、店内を見て回った。色とりどりの野菜や果物が並んでいるのを眺めるのは楽しい。異星人の卵のような奇妙な形をした南国の果物も売られていた。しかし、ヌャンペフだけが見当たらない。惣菜コーナーから鮮魚売り場まで、くまなく探したが、やはりどこにもなかった。
「あの、ヌャンペフって、置いていますか」
 どうしても見つかりそうになかったので、私は品出しをしている店員に尋ねた。四十歳くらいの小太りの女性で、小さな目が浅黒い顔に埋まっている。私の声が聞こえなかったのか、彼女は作業を続けた。知らない人間と話をするのは苦手だ。心臓が不快な鼓動を打つのを感じた。
「あの、ヌャンペフって」
 言いかけた瞬間、彼女は動きを止めて、私をじっと見た。心臓の音が、大きく、速くなる。額に汗が滲む。彼女が口を開いた。
「お客さん、それ、この前も探していましたよね。もう三度目か四度目でしょう。ヌャンペフとおっしゃいますけどね、そういうのは困るんですよ。申し訳ないんですが、他をあたっていただけませんか」
 恥ずかしくて死にそうだった。周りで買い物をしていた客たち、痩せた老婆や、子供を連れた母親が、立ち止まってこちらを見ている。顔が熱くなるのを感じた。私は黙って売り場を離れた。早足で駐車場へ逃げかえって、車を出した。泣きたいのを我慢して、県道を飛ばした。もうあの店へは行けない。ヌャンペフも手に入れられなかった。きっと、どこを探したって、手に入るものではないのだ。彼は今日もまた悲しい顔をするだろう。私には、どうすることもできない。マンションの駐車場まで逃げてきて、車を停めると、涙がぼろぼろと溢れて止まらなくなった。私は運転席に座ったまま泣き続けた。

 私は母が住む家の前に立っていた。辺りは不気味なほど真っ暗だ。いつの間にか、私の手にはヌャンペフがあった。ヌャンペフはずっしりと重かった。私はそれを両腕でしっかりと抱えた。
 ヌャンペフを抱いたまま家の周りをぐるりと一周歩いてから、中に入った。玄関の鍵はかかっていなかった。薄暗い廊下には、何が入っているのかよくわからない段ボール箱や、空になったペットボトルが散乱している。がらくたを踏みながら、私は母の寝室へと向かった。なんとなく、しかし絶対に、そうしなければならないような気がした。
 ゴミの山の中で、母は薄汚れたベッドに眠っていた。目を覚ます気配はない。その横に、私は立っていた。ただ、それだけだった。どこか遠くで電話が鳴っているのが聞こえた。
 突然、胸の前に抱えていたヌャンペフが激しく燃え上がった。私は驚いて、ヌャンペフを床に落とした。落下したヌャンペフから、火はそこら中に散らばった雑誌や衣服に燃え移り、あっという間に天井まで届くほどの巨大な炎になった。だが、母は目を覚まさない。
 私は寝室を脱出し、もと来た方へと廊下を進んだ。背後に火の手が迫るのを感じた。玄関が開いたままになっていたので、そこから外に出ることができた。振り返ると、家は真っ赤に燃え上がっていた。ときおり、木材が爆ぜたり、ガラスが割れたりする音が聞こえた。壁や天井が次々に崩れ落ちていった。私は炎に包まれた家屋を見つめつづけた。

 そっと目蓋を開いた。私は車の運転席にいた。夢を見ていたようだ。辺りはすでに薄暗く、しんと静まり返っていた。頬に涙が乾いた跡が残っていた。
 ぼんやりとした頭で部屋に戻った。薄暗い寝室に、今朝のマグカップと灰皿が仄白く浮かんで見えた。私は着替えることもせずにベッドに潜り込んで、眼を閉じ、体を丸めた。丸まっているうちに、頭と爪先が溶け合って、くっついた。親指と小指の区別がなくなった。背中が腹になり、顔と乳房が一つになった。目蓋だった場所の裏側に、いくつかの星が瞬いた。私はヌャンペフになった。
 それからしばらくして、彼が帰ってきた。彼は玄関を開けると真っ直ぐベッドへ向かい、そこに横たわる私を、ヌャンペフを、じっと見下ろした。それから、静かにヌャンペフを胸に抱き、そして、食べた。

この小説は、大学一年の頃に受講していた或る授業の期末課題として書いたものである。「恋愛小説を執筆する」という課題だった。日頃ろくに勉強をしていない学部生に質の低いレポートを作らせるよりは、創作でもやらせた方がまだいくらか面白いということらしかった。

今読み返してみると、どうにも筋がつまらないし、言葉の運びもまずい。締め切り間際に一晩で書いたものだから、仕方がないといえば仕方がないのだが、それにしても、もう少しやりようがあった気がする。

とはいえ、このまま放っておく勿体ないので――子供の頃からけちな性分なのだ――少しばかり修整を加えて、この場に公開しておこうと思う。いずれ人の目に晒しておくのが恥ずかしくなって消してしまうかもしれないが、構わないだろう。