回転寿司、肥大する自意識

 高級フレンチには手が届かないが、一杯のかけそばを家族三人で分けあわなければならないほど貧しい暮らしをしているわけでもない。たまに外食をするなら、回転寿司くらいがちょうどいい。そう思っていた。
 ところが、この頃は無邪気に回転寿司を楽しむのも難しくなってきた。他者のまなざしが気になるのだ。

 たとえば、今、ここが、某回転寿司チェーンの店内であったとしよう。僕はカウンター席に着いて、ベルトコンベアの上を一列になって流れるたくさんの寿司を見つめている。行列の中にえんがわの皿を見つけた僕は、それに手を伸ばそうとする。すると、どこからか、こんな声が聞こえてくる。
「一般にえんがわといえば、ヒラメのひれの付け根のことを指すけれど、回転寿司のえんがわは、ヒラメよりもキロ単価の安い大型のカレイから採られているそうだよ。オヒョウとか、カラスガレイとか、そういうやつ」
「へえ、どうりで下品な味がするわけだ。カレイの化け物から採ったんじゃあ仕方がないね。でも、貧乏舌の客は高級食材だと勘違いしてよろこんで食べるのだろうね」
 僕は伸ばしかけた手を引っ込める。えんがわは僕の前を通り過ぎていく。
 実際のところ、こんな無粋な会話をする客どもが本当に存在しているわけではない。しかし、もしかすると、そういうことを考える連中がどこかから僕を見ているかもしれない。そして、僕のことを馬鹿にする機会をうかがっているかもしれない。そういう恐怖が、僕の頭の中に幻聴を響かせるのだ。
 それから、念のために書いておくが、僕自身はカレイのえんがわだって十分に旨いと思っている。決して下に見ているわけではない。本当はその味や舌触りを存分に楽しみたい。けれども、他人に侮られるのは何よりもつらい。だから、やはり回転寿司のえんがわは食べられない。

 今度はまぐろの皿が流れてくる。これなら無難だろう。と思った矢先、また別の声が聞こえる。
「一般的な回転寿司において、まぐろの握りの原価率は八〇パーセント前後もあって、どんなに売れても、店の利益はほとんどないそうだよ。そのかわりに、ツナマヨやコーンの軍艦みたいな原価率の低いものをファミリー層に食わせて、それで利益を確保しているんだ」
「へえ、それなら、まぐろの皿をたくさん取るのが、割の良い食べ方ってわけだね」
 原価率を気にしながら食事をするなんて、そんな情けない真似ができるか。僕はまぐろを食べたいからまぐろを食べるのだ。せっかく旨いものを食おうというのに、損だの得だの、馬鹿馬鹿しい。
 とはいっても、しかし、ここでまぐろに手を伸ばせば、誰かが僕のことをみみっちい人間だと言って嘲るかもしれない。それならばコーンがのった軍艦巻きを食べてみるか? まさか。

 寿司の大群が隊列を組んで僕の前を行進していく。ハンバーグやら、パフェやら、タピオカミルクティーやら、悪い冗談みたいなものまである。そのどれを取ろうとしても、頭の中の幽霊が余計なことを言う。僕はもはや身動きが取れない。そうして、五分も十分も何も食べずに固まっていると、また恐ろしい声が聞こえてくる。
「あそこにいる痩せた客は、さっきから一貫も食べる様子がないじゃないか」
「きっと、自分がどの皿を取るのか、人に見られているような気がして仕方がないんだろう。たかだか回転寿司で、人格を丸ごと否定されるんじゃないかって、そんなくだらないことに怯えているんだ。要するに、自意識過剰なのさ」
 まったくその通りだ。だが、しかし、それなら僕はどうすればいい? えんがわの皿を取れとでも言うのか? そんな恐ろしいこと、僕にはできない。誰でもいい、どうか教えてくれ。僕は何を食べればいいんだ?

 僕は半狂乱になって店を飛び出し、その場から逃亡する。泣き喚きながら街を駆け抜ける。そして、走り回っているうちに、自分が一匹の巨大なカレイに変身していることに気づく。カレイは猛スピードでビルの谷間を泳ぎ、野を越え山を越え、やがて海に帰る。