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「おかえりモネ」に影響を受けて、やっと吐露する震災の記憶。





東日本大震災から、
今年の3月で十年が経った。


それは、紛れもない変えられない事実で
新たに生まれてしまった日本の歴史。


もう十年か。
まだ十年なのか。


世間で色んな感情が飛び交うが、
私にとっては、
長いのか短いのか判断できないのだ。


十年前、
誰が3月11日を震災があったと
語り継ぐことが出来ただろう。


十年前、誰が3月11日を
東日本大震災だと受け入れられただろう。


十年前、
どうして大震災が発生したのだろう。

誰がそれを分かるのだろう。


変えられない現実に押し潰されながら
わたしは解決できない考察を
思い浮かべては、泣いてばかりだった。







当時の記憶が蘇って、
今でも正直苦しくなる。


当時、私は19歳だった。
大学一年の春休み。

たまたま帰省できなくて、
大学のある土地に留まっていた。


実家は東北地方。

しかも沿岸。

おもいっきり海が近い。

海が好きだったし、
海がある地元が誇りだった。

昔から、地震と津波は隣り合わせだった。

直接、津波を見たわけでもないけど、
地震は日常に溢れてた。


だから今でも、
あの衝撃は忘れられない。

東北から東京を越えて、さらに南。

そこに留まっていたとしても、
あの揺れが大地震で津波が来る。と
直感で分かった。


一目散にテレビを付けた。


おもいっきり地元が映る。


電話が繋がらない。

メールもできない。


テレビの情報やネットニュースに
心が勝手に、簡単に撃ち抜かれていった。


まるで勝手に
目に見えない銃声を聞いて、
打たれて、死んでいくような感覚。


家族とも地元の友達とも知り合いとも
連絡のとれない。


あの一晩。

あの一日。

たった一晩と一日。


わたしが経験した、あの暗闇。


まるで世界が一人だけになったような孤独。


人によっては、

何日も、

何週間も、

何ヶ月も、

連絡とれない。


そんな事実があったなんて
知らなかった。



自分のことで精一杯だった。





津波の「つ」、

地震の「じ」、

海の「う」、

それを聞いただけで
見ただけで
パニックになった事は数え切れない。


走馬灯が今でも消えない。













最近になって、
やっと、
ほんとうの意味でも
ようやく私も向き合える勇気や覚悟が
出てきたように思う。


それは、
朝ドラ「おかえりモネ」を通して
当時を思い出すことが増えたからかもしれない。


連日の丁寧な感情の描写。


震災がキーポイントになって、
主人公の過去・今・未来を繋げていく。


これだけ震災がキーポイントになって
主人公の夢を描く過程の描写があっただろうか。

いや、あったかもしれない。

私の今のタイミング的にも受け止めきれるほどの余裕が生まれたのかもしれない。


わたしにとっては目を背きたくなる場面が多いけど、震災十年目の私を後押ししてくれる不思議なパワーに圧倒される。




そして震災十年目にして、
地元に戻ってきて、地元の発展に携わる職種に就いたことも影響しているかもしれない。

 




同時に震災の記憶と思い出を自分の中だけに留めておきたくなくて、やっと言葉に起こす覚悟が出来たよ。



最愛のじいちゃんに届け。
わたしの想い。










じいちゃんは震災の1ヶ月半後に死んだ。


死に目に立ち会えなかったことは、
私が抱える最大の後悔だ。


身体も弱かったから、ずっと心配だった。


たぶん、
震災のストレスで
身体を蝕んでしまったんだと思う。

じいちゃんらしい最期ではあるのかな。

今、このコロナ禍まで生きていたら
どうなっていたのだろう。


わたしは、じいちゃんに話したいことが
山ほどあったし謝りたいこともあった。

教えてほしいこともあった。

見てほしい未来もあった。

それは、もう叶えられないことだ。

わかってる。

わかってるけど、
じいちゃんのために生きたかったんだ。


ずっと。



ずっと。




ずっと。




















肝心なときに家族のそばにいなくて、
地元にすらいなくて、
実家は事実だけ言えば被災していない。


私は地元出身の大学生の一人だった。



家屋は無事だったけど、
実際にライフラインは止まっていたから
家族だって被災者なはずだった。

今ならそう思えるのに、
当時は家屋の浸水もなく建物崩壊もない。

実家の家族も、目に見える形で家が壊され家族を失った被災者からみれば、あまりにも格差があり肩身が狭かったらしい。


でも、
実際にガソリンを求めて長時間並んだ。

電気ガス水道が止まった。

食品を求めて一日中探し歩いた。


近所の体育館が、
遺体安置所になったと聞いた。

そこは
かつて中学のときに部活で使った体育館だった。子ども会でもスポーツ大会でも使った。


じいちゃんが過去に運営管理していた、
地元で唯一無二の運動公園。

津波で流されてしまった。

父も野球の試合で使ったことがある場所。

父の所属する野球チームのバーベキューで
何回も行ったことのある場所だった。


そして弟は津波を目撃した。

一晩、高校の先生や友達、先輩、後輩たちと
高校の屋上に避難した。

しかも何かの手違いで、
父が迎えに行ったと思い込んでいた弟。

父が津波に巻き込まれたのではないか、
という事実かどうかもわからない情報に
押しつぶされていたと思う。

でも実際は父は迎えに行っておらず、
途中で断念していた。

だから結果的に、家族全員無事だった。


それが分かったのは
私は、丸一日以上経った夜に
携帯電話の回線が繋がってからだ。


弟は一晩たって朝を迎えてから
先生の誘導のもと
安全を確認して、
家に向かって歩いたと聞く。

あの場所から歩くとしたら、
車で20〜30分かかる距離なのだから
半日以上は掛かるだろう。


津波で変わり果てた街並みを歩きながら、
何を思って、何を感じて、何を受け止めて
いたのだろう。


私には想像すらできない。
その場にいなかったのだから。


その後、
弟は家の途中まで来たとき、
母に何十年ぶりのハグをしてもらったそうだ。


生きた。

生き残った。

生き延びた事実を、

弟の命の灯火を抱きしめた母。


どれだけの喜びだったのだろう。

言葉にならない。

決して言葉にできない感情で溢れていただろう。


あの津波で失くしたかもしれない。

弟の命。


それが今、目の前で

生きている。


その紛れもない幸せを噛みしめていたことだろう。

これは、あくまで聞いた事実から感じた私の解釈に過ぎない。






そんな震災当時の家族の日常を、
地元の事実を、
家族から聞かされるたびに
私は生きた心地がしなかった。



決して家族に届かない想いを胸に抱えて、
ときには閉ざした感情。


誰にも伝えられない。

わたしの震災の記憶と思い出。




私が被災地にいないだけで、
ただ、それだけで苦痛だった。

加えて、出身地を語るだけで
同情や心配の眼差しで声掛けられることが
どれだけ苦しかったか。
もちろん同情も心配も否定はしない。
声を掛けてくれて嬉しかった。

でも、聞かれたくないことでもあった。
なぜなら、嫌でも震災のことを
考えることになっていくから
ポキッ、ポキッと聞こえない音で
心が折れていった。
いつのまにか負担になってしまった。


新学期になって
新しく出会う人たちに聞かれた、
なにげない質問に
心は悲鳴をあげていった。


何県出身です。
よろしくね。


そう言ったところで、
必ず聞かれる質問がある。


実家は震災大丈夫だったの?


家族のことを考えれば、
簡単に大丈夫と言えない。


でも私は変なプライドが邪魔をして
多くを語ろうとも思えずに、


ライフラインは止まったみたいだけど
家は被災してない。
でも地元は被災地になってしまった。


それだけは伝え続けた。



当時の自分にできる事は
それしかなかった。


それ以外の、
被災地に直接赴くボランティアには
踏み込めなかった。


足も手も震えていた。


被災地に比べてライフラインが整っている環境で暮らす当時の私には何も出来ない。


そんなふうに思っていた。


がんばろう!ニッポン!


そんなキャッチコピーに同情できなくて
私は生きた心地がしなくなって
塞ぎ込んだ。


みんな被災地のために頑張っているのに
わたしは何も出来ない。


まだ十代最後だった私には、
受け止めきれない事実で溢れていたんだ。



トラウマとも言うべきことなのかもしれない。

いまだに、地震や土砂災害などの被害・警報を見るたびに魘される。


孤独だった夜を思い出してしまうから。










十年経っても、そんな状態のわたし。


自分を役立たずだと思い込んだ時期もある。


でもね、

こうやって自分の想いを何処かに吐露するだけで、何かが変わるみたいなんだ。


それを友人が教えてくれた。

だから続けられる。

私らしく震災の記憶を残すこと。


私らしく震災を語ることを
どうか許してほしい。


いつも、そう思いながら
綴っている。


当時のことをちゃんと知る友人も
たくさんいる。

だから一人じゃないと思えたんだ。

未来を続けようと思えたんだ。


未来のために生きようと決めたんだ。



 




あしたが来れば、生きられる。


明日にやることを決めれば生きられる。


生きる約束。


生き抜く約束。


完璧じゃなくていいんだ。


今日一日を生きることが大事だ。


生きていなければ何も出来ない。


生きていたら生きる意味が見つかる。


重く捉えなくていいんだ。


あさ起きれたら、褒めていい。


よる眠れたら、褒めていい。


眠れなくても、
横になるだけで満点なんだから。


ありふれた言葉だけでは
伝えられないことが多い。


でも、ありふれた言葉で
誰かの心に何かを残せたらいい。


生きる意味を見つけられたらいい。


今は、それが私の役目だと思い始めた。


何ができるわけでもない。

得意なわけではない。

不器用すぎて伝えるのが下手くそだから、
文章にしたいんだ。


















十代最後で震災を経験した私が、
震災から教えてもらったのは
ありふれた日常を大事にすること。


それだけじゃない。




自分を愛することだ。






自分を愛していい。


辛かったら、

悲しかったら、

疲れてしまったら、

自分を抱きしめていい。



時には逃げていい。


自分を大事にしていい。






生きるうえで、
最低限、
大前提にあるのは
自分を大事にすることなんだと気付いた。


自分を大事にしないと、
自分の周りに居る家族も友人も守れない。
大事に出来ない。

愛せない。

好きになれない。

余裕が生まれない。


わたしは身をもって経験してる。



だから、
私はエッセイを止めない。


生きている限り、
自分の想いを伝え続ける。


鬱陶しく感じたとしても
伝え続ける。


伝え続けさせてほしい。


震災の記憶を語り継ぐためには、
エッセイに起こしたいんだ。


失いたくないんだ。


失いたくないものがたくさんあるんだ。





きょうも、おつかれさま。
ありがとう。


出会ってくれて、
出会わせてくれて、
ありがとう。

見つけてくれて、ありがとう。




おやすみなさい。


一息ついて、また明日。