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会心の一撃(Chapter1-Section7)

 今のようにガラケー、スマホもない時代。相手との連絡も容易じゃありません。交通費が無駄になるリスクがありましたが、久々に友人の顔がみたくなって電撃訪問することに。
 案の定、留守。とりあえず待つことにしました。陽が沈みかけた頃に着いたので、すぐ暗くなりました。
 腕時計がなかったから、駅を往復しながら時間の経過を確認。今のようにコンビニも多くありません。
 
 もう、会えそうにない…と諦めかけた頃、「お前、今までどこ行ってたんだ」と声がし、「音信不通で心配したぞ」と部屋に案内された。
 ブラック企業なんて言葉もないから半信半疑だったはず。事の顛末を話すと「それは大変だったな」の言葉に、ボクは思わず泣いてしまった。
 歯をくいしばり、泣き言も言わずにやってきたのに。
 
 耳を傾けることを「傾聴」と言いますが、カウンセリングやコーチングに興味がある人は、是非これを身につけて欲しいです。本当に、言葉が人を救うこともあるのです。

 彼とは小学生からの付き合いです。
 幼少から母子家庭で、父親は知らない。心を病み、床にふせた母親の面倒をみながら、極貧の生活を送っていた。今でいうヤングケアラーでした。

 何度か遊びに行きましたが、お母さんが起きている姿を一度も見たことはありません。布団から弱々しく身を起こし、青ざめた顔で「息子と仲良くしてあげてね」と言われると、まるで遺言のように聴こえました。
 祈りにも似たその言葉は、我が子への愛情でしょう。おばさんを心配させたくなくて、いつも笑顔で「はい」と答えていました。
 実際は、彼と殴り合いのケンカもしたし意地の悪い事もしました。揉めたことも多々ありましたが、彼を嫌ったことは一度もありません。
 
 晩年になって知りましたが、彼は生活保護を受けていませんでした。
 他人に迷惑をかけないといった親の意地でしょうか。貯金を切り崩していたから、極貧でした。学校の給食が唯一のまともな食事で、お風呂も滅多に入れないから、一部の同級生は鼻をつまんで「くさい、くさい」と、わざと大声を出して彼を避けていた。
 担任の教師でさえ、ぞんざいに接していた。彼をストレスの吐け口にし、つまらない事で怒鳴ってはそれを楽しんでいた。ボクはこの教師が大嫌いでした。
 
 ある日、彼に誘われ生まれて初めての銭湯に行きました。お湯の熱さに驚いて水で薄めていたら、背中に立派な入れ墨をしたオジさんに怒鳴られ、えらく怖い思いをした事を憶えています。
 彼は物怖じせず小さい頃から一人で通っていたのだから、凄い人だなと子どもながらに尊敬しました。
 
 生活保護であったら、経済的に余裕がまだあったと思います。穴の空いたジャージしか着てなかったし、身ぎれいな同級生との差に、劣等感だってあったと思います。
 そんな長年の苦労を背負った彼の言葉だったからこそ、涙腺がゆるみ泣いてしまいました。

 「雑魚寝になるけど泊まっていけ」と掛け布団を用意してくれました。2ヶ月ほど横にならなかったので、あっという間に深い眠りについた。
 
 褒められた話ではありませんが、中学時分の彼とボクは素行が悪くて少し有名でした。
 今から20年ほど前に同窓会がありました。25年振りに懐かしい面々と再会しましたが、ある同級生から「てっきり、ヤクザ者になってると思ったよ」の言葉に、腹を抱えて笑ってしまいました。
 
 隣にいた彼の肩を叩きながら、「聞いて驚くなよ!こいつは中学卒業してから、学費を稼ぐのに1年間社会人やって、その後も働きながら夜間高校に通ったんだ」
 「それだけじゃないぞ。こいつは北海道大学いって、上智大学いって、東大の大学院いって、オックスフォードにいったんだぞ!」
 どうだ参ったか!っと言わんばかり、散々彼をバカにした連中に会心の一撃を与えられて、清々しく感じてしまいました。

 企業も同じです。国際情勢やらの影響で業績が振るわず落ち目になったりします。
 今回の新型コロナで相当、株価も下がりました。でも、会社は組織です。組織が一丸となって、それを乗り越えようとします。そこに投資冥利もあるのです。
 例えば、ボクがコロナ禍で保有した「ダイコク電機(6430)」。パチンコ業界向けの電子機器メーカー。
 社訓は「未来を信じ、何事にも無我夢中で挑戦し続けることである」

 まさに会心の一撃です。ちなみに株価は9月26日の終値です。

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