hydeout.psychology
小説
男がネットカフェに着いたのは、日が変わるまであと1時間ぐらいの頃であった。 男は覇気のない薄い顔をした茶髪の受付男に空室を確認し、朝7時までの時間で個室に入ることにした。茶髪の男は料金を提示すると、男は手早くカードで支払いを済ませ、自分の個室に移動した。 ネットカフェの個室とは ー その男にとって、個室という言葉で表現した世の「個室」の中で、最も居心地が悪く、印象が良くない「個室」である。そして無聊であった。というのも、男は漫画を読まないし、ネットカフェを利用するのは終
女は薄暗い地下室の、冷たい地面に座り込んでいた。その向かいには、まだ幼い面影を残した少女が立っていた。その場所は、『我々の知る世界』に限りなく近い存在感を持ちながら、それでいて、『似ているようで何かが違う』神秘的な気配を漂わせていた。その世界は、人の魂に強く示す何か ー を、含んでいるようでもあった。 女は座ったまま、顔をその少女の方に向けて言った。 「私、見たの。あの男が、あの男が…あの娘を、殺したのよ」 女が少女に会い、話したのは、今ここが始めてであった。お互
十六時だった。空がネイビー色をさらに淀ませたような、寒々とした暗い色を見せている中、ミタクエは自転車をこぎ、国道沿いのタバコ屋に向かって移動していた。そしてタバコ屋に着いたとき、ミタクエは遠目から店の窓を外から覗き見た。レジに座る中年の男は ー 平常運転といった塩梅で ー 首をもたげ、こっくり、こっくりと居眠りをしていた。それを見たミタクエは、自分の推測 ー ピーターではなく、他にも被疑者たる身内がいたこと ー が現実味を帯びていることを確信した。 と、言っても。その
ロベルトは左足を前にして足を組み直した。そして椅子を少し手前に引き、やや背筋を伸ばしながら、ミタクエの顔を見た。 「ミタクエ、まず言っておくけど、これは僕の個人的な意見であって、警察の総意ではないんだ。犯行現場は、知っているね?」 「ええ。殺された女の子の家のそばの、小学校の近く」 「まあ、君にこんなことを話して何になるんだって、思うんだけれどーー」 ミタクエはロベルトを一瞥した。 「そういうの、いいからさ。それで?」 ミタクエは強く言いはなつと、ロベルトは
「ロベルト。じゃあ、あなたは」 ミタクエ・オヤシンは、何かを言いかけたが、言葉をつぐんだ。彼女の前で、そのロベルトという男は額に幾分シワを寄せて、机の上にのせていたミタクエの両手、指のあたりを見ていた。 「そうだな。僕は、現状、ピーターが最も疑わしいと思う」 ロベルトは言いにくそうに、だが明朗としたひくい声でそう言うと、手元のコーヒーカップにスプーンを突き立て、手持ち無沙汰になりながら、ぐるぐるとコーヒーをかき混ぜ始めた。彼らがいたテーブルは窓際の一番奥で、他の客は
<第二章 小さな町> ピーター・オヤシンが、件の女児強姦・殺害の容疑で逮捕され、そのことは同日中に町の全ての人間が知るところとなった。というのも、この町は『小さな町』なのだから、人の噂、まして今回のような州・全米規模で報道されるような大きな話題は、すぐさま住民同士で、嘘や真実、噂話も含めて、仔細に渡って共有される。しかしながら、この一見するとショッキングなニュースは、彼ら『小さな町』の住人たち ー の殆ど ー を強く驚かせるには至らなかったのである。むしろ『やっぱりな』と
男は、スーパーマーケットでウイスキーをひと瓶買うと、それを抱えて ー やや千鳥足になりながら ー 駐車場のほうに向かっていった。 前後不覚、という言葉が、一番しっくりくる。買う前から明らかに酩酊していたその男は、買ったウイスキーをビニール袋ごと抱えて、そのままラッパ飲みしながら、停めてあったポンティアックの助手席に乗り込んだ。運転席には、浅黒い肌をしたアジア系の男が、タバコをふかしていた。 「おい、おい、ふらふらじゃないか。用は済んだのか」 アジア系の男は、口中に溜
モーテルのドアーは少しだけ開いていて、隙間から鈍い光が漏れていた。 時刻はすでに深夜であった。私は携帯を耳から離し、あたりの静けさを肌で感じながら、そろり、そろりと光が漏れる方向に向けて、少しずつ近づいていった。 「ああッ」 突然、チカの声が聞こえた。それは、叫び声と表現するには弱弱しく、どこか力が抜けた感じの、か細い女性の声であった。声は建物の少し奥のほうから聞こえ、私は声を聞いて思わず ー 入り口の眼前まで来ているのに ー 少したじろいで、立ち止まってしまった。
私は幸運なことに、ドリンク・ホルダーに引っ掛けてあった、車のキーをすぐに見つけることができた。よく考えてみると、運転手がもし車のキーを身につけたままいなくなっていたらこの車は運転できなかったな、と私は思いながら、私はなれない左ハンドルのイグニッションにキーを挿し、エンジンをかけてそのままゆっくりと車を前に出した。 予約したモーテルの地図はチカが控えていたので、私たちはただそこに向かって行くだけだった。私たちはモーテルの方面に向けて、空港から道路に出て、ひたすら進んでいっ
私はゲイリーからの着信を取り、声をかけてみたが、返事はなかった。 「ゲイリーじゃないのか」 返事はなかった。チカは私が電話をしていることに気づくと、ゆっくりとした動作で私の隣に腰掛けた。 「なんとか言ってくれないか。電波が悪いのか」 私は状況がわからず、うんざりしながら言うと、急にノイズのような音が電話口から聞こえた。びゃー、びゃー、といった大きなノイズが鳴り始めたので、私は電話が切れてしまうのではいか、と危惧した。 その時、ノイズに混じって人の声が聞こえた
なんだか暖かい陽だまりのような、『やさしくも息苦しく薄い何か』に包まれていた。私は目が覚めたような、覚めていないような、それでいて眠りと覚醒の合間に姿をあらわすまどろみとはまた違った、なにか不安定で、とてもふわふわした感じの中にいた。 アルコールのような匂いがし、また、近くで誰かが話しているようだった。私は「無垢ななにか」がそばにいるような気がしたが、それはそばで話している人ではないな、と思った。そうこうおぼろげに考えているうちに、私は全身の感覚が少しずつ戻ってきたので
機体が上昇し、安定した頃。ふと窓を眺めてみると、外はもう暗くなってしまっていた。はるか上空から見下ろすアメリカを見て ー 少なくともしばらくは見納めになるのだから ー 何かしら感動してみたい気がしたが、見えるものは全て暗かったので、よく分からなかった。街の光が遠くに見えて、なんだか外は寒そうに思えた。サンディエゴから福岡まで、十時間と十五分、私はまた、帰国までにより充実した感じで、健全な気晴らしができないものか、と考えていた。 その後しばらくして、機内食はまだ先なのだろ
私がサンディエゴ国際空港に到着したのは、拘置所を出所してから数えて二十日ほど経過していた頃だった。出発の時刻は十七時だったが、私は十四時過ぎにロビーに到着した。 私がここに来るまで ー ウィンズローから西海岸に移動してから ー これまでと同じように、ユースホステルを転々としていたのだが、特に面白い出来事もなく、また、つるめるような面白い人に出会うことも、ほとんどなかった。その頃私は『目的もなくふらふらと風まかせに放浪すること』になんとなく虚しさを感じ始めていたので、つい
私とジハがウィンズローの外れにあるバス停にたどり着いたのは、十八時を少し過ぎた頃であった。これからジハは十八時三十分のバスに乗り、私は十九時過ぎのバスで西海岸の方面に行く予定だったので、我々はバス停で ー 少し手持ち無沙汰な感じ ー で、それぞれのバスを待つことにした。あたりは既に昏くなっており、ジハは腕をさすりながら「寒いな」と小さな声で呟いた。そして、彼は先ほど買ったタバコを箱から出し、私のライターで火をつけた。 「おっと、返しとかないとな。忘れちまう」 ジハは早
ウィンズローの拘置所を後にした私は、ゲイリー・ヨシダとと別れを言うタイミングが得られないまま、その地を立ち去ることとなった。まず私は、返却された自分の荷物 ー バックパックの中から、衣類の隙間に挟み込んでいた ー 20ドル札をポケットにねじ込むと、通りかかったスーパーマーケットに入り、コーラとサンドイッチ、ポテトチップスを買い、空腹を満たすことにした。このウィンズローという土地はもともと通りかかった場所に過ぎず、土地勘もなく、知り合いもいない。とりあえず私はバス停に向かい、
2012年の秋、アメリカ東海岸からサンディエゴへと戻る途中、ゲイリー・ヨシダと私はアリゾナ州ウィンズローで逮捕され、20日間拘置された。容疑は、ゲイリーが持ってきたポンティアックが盗難車であったこと、また他に彼に何か前歴でもあったのだろうか。いずれにせよ、ゲイリーとはその後会うことはなかったのだから、真相はわからないままである。 25歳だった私は、当時勤めていた福岡の印刷会社の ー „業務内容“に嫌気がさし ー ある日怒りにまかせて退職すると、当てもなくアメリカを放浪す