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生命としての人間と自我の存在

「人間」とは本来の意味では人と人との間、つまり関わりのことで、「社会」を表していました。しかし、よくよく考えてみると他者や社会から切り離された独立した「人」など考えられませんから、個人のことも人間と呼ぶようになったようです。
ですから、人間の考察には必ず社会の考察が含まれます。
しかし、社会についての考察をするまえに確認しないといけないのは、まずもって、人間が地球上に生存する生物の一員であるということです。
私たちの脳を含む身体は、もとはたった一つの受精卵から分裂していったもので、すべての細胞が同じ遺伝子を持っています。その様々な遺伝子のスイッチが細胞によってONになったりOFFになったりすることで、複雑な生命活動が営まれています。そして、生殖によって遺伝子が世代を超えて受け継がれることで生命の流れの中に人間の生存もあるのです。このことを無視して人間が万能感を持つことは愚かなことであるように思います。
肉体的には自分には親がいて、その親にも親がいて、そのような命のバトンタッチがあって、今の自分の命があること。そして、仮に子をなして、 命のバトンを次の世代に渡すことになれば自分も祖先となっていくこと。それを忘れるわけにはいかないでしょう。
現代の科学が見出した「物語」では、細胞内のミトコンドリアの遺伝子をたどっていくことで女系のルーツが探れますが、それによれば太古のアフ リカの一人の女性にたどりつき、Y染色体について、男系のルーツを探っていくとやはりアフリカの一人の男性にたどりつくという、まるで聖書に出てくる人間の祖である「アダムとイブ」がいたような仮説が出されています。
そして、すべての地球上の生命は遺伝子レベルでみると、その複雑さや進化の経緯は別にして、同じ記号で書かれている同根のものであるとされています。仏教ですべての生命が輪廻転生を繰り返しており、その意味で人間がかつて前世では鳥であったり、虫であったりするという物語が説かれていますが、科学ではもっと踏みこんで、すべての生命の源は同じであるというのです。このような科学の提案は、人間が人種差別をしたり、人種によって優劣を誇ったりすることの愚かさも教えてくれますし、今日の地球環境の破壊や、希少生物の絶滅を考えるときに、地球という母や生命の兄弟姉妹を滅ぼしているという考え方も出てくるのではないでしょうか。
そして、このことは人間が「苦」として怖れている「死」が当たり前のことで、死後の世界とは「自分がいなくなったあとでも続いていくこの地球上の世界」のことだとも教えてくれます。
人間が信じている永遠の命や魂については、別のところで考察したいのですが、まずは生命としての人間という見方を忘れないようにしたいものです。
また、私たちは、父親から半分の遺伝子、もう半分を母親からもらうことで、親のコピーやクローンではなくて、独自の存在になります。このことの意味について、様々な仮説がありますが、一つの仮説は私たちの生存は外部からの細菌やウイルスなどの侵入を免疫機構によって防ぐことで維 持されています。つまり逆に言うと、ウイルスは変化しながら身体への侵入を図ろうとしているというのです。その際に生殖によらずに同じ遺伝子で子孫を残していくことは、その競争に不利なのではないかというのです。世代が代わるたびに遺伝子が変化していたほうが、ウイルスも戸惑うだ ろうというのです。
そして、このことは精神的な問題として考えても、親から生まれても親とは同じではないという生物的な特徴が、個体としての独自性をつくるうえで、とても重要になっているように思われるのです。
生命現象だけを見れば、細胞がたくさん集まって共生体として人体を維持していて、その人体も自然界や他の生命のバックアップ(体内の有益な細菌・食物となる他の生命)があって、生存できているのですから、結局、人間が社会の中で切り離せないように、人間の生命も自然界の共生体とし て「個」として見ることは難しいのです。
しかし、私たちは精神的には、個体としての意識を持っています。これが良くも悪くも人間なのです。
これから、人間の生き方を考えるうえで、このような共生している生命群の一部である「個体としての人間」が、独立した精神としての自我を持っているということをどのように調和させていくのか、それが人間学の解決すべき問題の一つなのです。


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