昨日の今、明日の今
※お立ち寄り時間…5分
「ねえ、あなたお腹すいてない?」
突然の夕立に右往左往していた私に、小柄だけどちょっと横幅のあるマダムが声をかけてきた。
「え?」
「ラザニア、作りすぎちゃったの。」
「ラザニア?」
「そう。雨宿りがてら食べて行かない?」
細い窓の隙間から、さあ、いらっしゃい、と誘うように、食欲のそそる香りが鼻先をくすぐる。どうやら、不覚にも雨宿りをしていたのは、他人の軒先だったらしい。
雨宿りまでさせてもらって、ご飯をご馳走になるなんてとんでもないと、覚えたてのイタリア語で謝罪をする。
すると、彼女は、全く気にしていないとにっこり笑って、カラカラと窓を開け、どうぞ、と部屋の奥を指さした。
ラザニアは、私にとって特別な食べ物である。
最後の晩餐は、きっと迷わずラザニアと答える。そのくらい、彼女のラザニアは人生で一番幸福の味がしたのだ。
「あの…、とっても美味しいです。」
「それは、良かった。好きなだけ食べてね。」
たらふくラザニアをご馳走になった後、青い花が描かれた皿を片付けようとキッチンへ向かう。
「あの…、お礼をしたいのですが…。」
「あら、そうしたら、色を教えてくれるかしら?」
「え?」
全く気がつかなかった。
彼女は、目が見えていなかったのだ。
どれほど、下を向いていたのだろう。
どれほど、他人に興味を持たなかったのだろう。
毎日、少しずつ印字されていくみたいに
我慢できる嫌なこと
が身体中に溜まっていって
ふと気がつくと、雨の日は前に進めなくなっていた。
水の中で呼吸をするみたいに、上手く肺に空気がいかなくて、目の前が真っ黒だった。
些細な嫌なことが溜まりきった出勤簿は、いつの間にかイタリア行きの航空券に変わっていた。
たった30分。
ただ一緒に食事をしただけ。
それなのに、何故か人生で一番穏やかで優しい時間だった。産まれたての子どもみたいにわんわん泣いた。
「あなたの言葉で、色を伝えて欲しいの。」
「はい…。」
きっと、彼女は、私の感情の輪郭が震えていることに気がついたのだと思う。
軒下で、誰にも聞こえない叫びを上げていた私に気が付いたのだと思う。
あの日、彼女は、目の手術をすると言っていた。
あの日、精一杯、他人の言葉ではなく、自分の言葉で伝えた色を、愉しんでいるだろうか。
そう雨の色は、明日を愉しむ色、なのだから。
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