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いつも、全部おいしかった。【chapter82】






スーパーでソノコは、普段なら手を出さない、大袋の、値の張る鰹節を迷わず手に取り、迷わず買い物かごに入れた。

透かせば向こうが見えるであろう、薄くフワフワと軽い鰹節の袋を見下ろし、いずれ上等な鰹の塊と鰹削り器をタカシに、リョウでもいいけれど誕生日プレゼントにおねだりしてみようと、思い浮かべ秒後、三人のクリアな未来は逃げ水となった。

常ならば隣でのんびりカートを押す、名前をたずねれば「土曜日の穏やかな昼下がり」と答えそうな、白髪混じりの男の不在。ちょっとそこまで用の焦げ茶色のビルケンシュトック。日常使いのサンダルの裸足、骨ばった太く長い指、短い爪、鼻を押しつければ自分と同じ匂いのする清潔な素足を見下ろせばタカシの日常の中に自分が溶け込んでいた。スーパーでタカシと食品や日用品の買い物をすることは、お洒落で華美な、ときめき百%のおでかけとは違うメロウな喜びだった。嬉しかった。

休日、昼食のあと、ベッドでタカシの素肌に耳を当て、胸から、

「買い物いこっか」

と聞くのは幸せなことだったのだと、振り返らずとも渦中から知っていた。

旅行をするとか、着飾ったデートとか、イベントの少ない付き合いのなかで、普段着の日常にどうしてもソノコは満足した。「何年も一緒にいるみたい」くさくてダサくて鳥肌がたつ言葉をもう自分は「寒い」と笑うことができないと思った。

リョウくんが来るからなに?

テレビの中の将棋を思う。将棋を見つめる男の横顔を思う。含みのあるニュアンスも、視線を向けずに紡ぐ平らな会話も引っ掛かった。けれど、なにより、弟の名前を他人の男の名前のように発音したことが、温度の低い音が、いつまでも耳に残った。悲しかった。その悲しさを振り払うように、ソノコは素麺と昆布のストックを、タカシの部屋のキッチンを思い浮かべた。

素麺を山ほど食べた三人の夏だった。

夏の終わりが近づいていたあの日。終わりの始まりとなったあの日の、全てをソノコは覚えている。

タカシが着ていたシャツの色、いつもきちんと一番上のボタンまで全て留めるタカシが、気だるげに上から二番目のボタンまでをはずしていたことも、仏頂面のリョウの顔色が悪かったことも、ソノコ自身の鳴り止まない早鐘のような鼓動も。

「もう二度と会わない」と、「好き以上どうこうするつもりはない」と二人の男から有無の隙なく、淀みなく言い渡されたことも、もちろん覚えているけれど、細部のとるに足らないことほどくっきりとした輪郭で記憶に残っている。結局のところ忘れるつもりがないのだと思う。

黒い絶望が溢れだしたあとの、空っぽのパンドラの箱の底には、実はたったひとつ透明な希望があったのだと、昔、父が話していた。希望。タカシからの最後のラインをソノコは、その透明な希望に無理にでも当てはめてみる。三人の夏は望洋と、ただ記憶の中にある。

タカシの事故、腕時計と携帯電話はダイニングテーブルの上に「置かれていた」と、リョウは言っていた。「置き忘れた」ではなく。警察から渡された手荷物の中には銀河鉄道の夜の文庫本があり、ひかるはだしの始まりのページに付箋紙が貼ってあった、と。

読書家のタカシが一人の夜にドライブがてら、どこか静かなカフェかバーで、読書すべく持参したんだろうと、ソノコは想像した。想像せずにはいられなかった。自分勝手な想像の中に自分を逃がした。ひかるはだしを、ひかるすあしのような気もするそれを、読んだことがないソノコは、今もまだそれを読んではいない。はだしかすあしか、正解を、リョウの本棚から出して確認すればわかるけれど、確認という勇気を今日まで一度ももたなかった。



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