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いつも、全部おいしかった。【chapter77】






目の前、手を伸ばせば触れることができるカラーのソノコ。フォークをさせないケーキ、一枚の皿。

「でも、ガリガリ君定番のコーラ味だって本物のコーラより好きだし、次々誕生する期間限定のキットカットも好き。

今、アメリカンチェリーをスーパーで見つけたら、躊躇わず手に取る。チェリーはタカシくんの好物だったけれど、それ以前に私の好物でもあるから。私はアメリカンチェリーが好きだから」

秘密のエモーショナルは、リョウにはもちろん、ソノコのクーピーペンシルのようにカラフルな恋愛遍歴の、全てを知る女友達にでさえ、秘密だとソノコは思う。グラデーションのない独立した色のクーピーで描いては削り、握れなくなるほど短くなれば、躊躇うことなく捨ててきたけれど、どうしても捨てられず宝箱にしまう色があることを、全てを知る女友達はきっと知らない。広い空や深い海を塗り、削っては塗り沢山の景色を描いた。描いた絵そのものを忘れても、捨ててしまっても、短くなったクーピーペンシルを捨てることはできなかった。そっと宝箱にしまった気持ちは自分だけの宝物だとソノコは思う。

朝目覚め枕に頭を沈めたままシーツの皺を見つめるとき、雲のない濃紺の空に満月見上げるとき、いかにもタカシ好みの酸味が少ないコーヒーを口にするとき、しかめ面の多いリョウが目を細め穏やかに笑うとき、タカシを思う。

ただ晴れているだけで、雨が降るだけで思い出す。些細な日常の中で、タカシといた日々を思う。

最後に見たタカシを含む景色を、最後の大きな背中を、夜から雨が降ったから車の窓を雨が覆い尽くしたこと。雨のせいでフロントガラスには水滴のベールができた。だから大切なことが見えなかった。いつかのグリーンカレーは辛さだけが尖りおいしく仕上げられなかった。タカシはおいしいと笑ったけれど辛すぎた。全て運命なのだから仕方がないと思った。なにかのせいにして、自分以外のなにかのせいにしなければ前へ進めなかった。

それでも、なにも良いところがない自分をまるごと好きだと愛してくれた過去は、悲しく光る。愛のすぐとなりには愛と同じくらい透明な憎しみがあるから危うくて愛を保つのはとても大変。でも最後まできっと、タカシは愛することを諦めなかった人なのだと信じる気持ちはソノコの中、最後に残った光輝く一粒なのだと思う。

「時薬って言葉があるじゃない?時間が解決するって。あれ、ちょっと違うんじゃないかって私思うの。もちろん時間もあるけれど、なにより自分が意識的に気持ちを変えてるのよね。

お料理もね、作ってすぐ食べたらもちろんおいしいけれど、時間を置いたらおいしくなるものもあるわ。熟成されたり、味が馴染んだり。

私はね揚げたての、サクサクの天ぷらは堪らなく好きだけれど、冷めきってペタッとした天ぷらも実はすごく好きなの。あれって天丼にしてタレをたっぷりかけたら最高よ。

過去も、形や風味や手触りや、思い出したときの心の揺れ方も変わる。

私は経年劣化って好きなの。時間と自分が手を加えて姿形を変えたソファーやデニムや革細工や、リョウくんの傷だらけの腕時計も、とても好き。

過去を自分の都合で変えてしまってもいいんじゃない?それが生きていくためなんだとしたら。向き合うことから逃げてるんだとしたら、それでいいじゃない。逃げてるってことは、向き合えてはいないけれど受け入れてはいるんだってことよ。ちゃんと自分の中にある。昔のままの気持ちではないかもしれないけれど、一粒でもタカシくんへの気持ちがあるなら、それを大切にしたらいい。

ふるいにかけて、最後に残った一粒がきっと本物よ。

全ての気持ちに名前をつけられるわけじゃない。でも最後の一粒に名前がつけられる日は必ずくるから、ただ大切にしていたらいい。


あのね、食べ物が腐る直前の味を知ってる?本当の直前、寸前よ。だから滅多に口にすることがないんだけれど。

私ね、昔、里芋の煮物を作って食べきれないまましばらく放置しちゃって、もう腐っちゃったかしらって食べてみたの。わたしってほら、何でも食べて確認するタイプだから。

腐っちゃったかしら、もう食べられないかしらって思いながら食べてみたら、どんな味がしたと思う?あのね、全く味がしないの。無味よ。自分の舌がおかしいのかしらって何度か食べてみたけど、やっぱりなんにも味がしないの。味がない粘土を食べてるような感じかしらね、粘土って食べたことないけれど。

苦かったり酸っぱかったりするのはそれはもう腐ってるの、お腹を壊すから食べられない。風邪をひいたときに食べ物の味がしないってよく言うけど、それとは違うのよ。

第一、私は風邪をひいてもたいがいなんでもおいしいのよね。

食べ物が腐る直前は無味よ。全て出し切って、終わる直前はからっぽ。姿形はあるけれど味は全くない、なんだか羨ましいわよね潔くて。

タカシくんが亡くなった直後はね、なぜかそのことばかり考えてたの。空っぽだったらいいって切実に思ったの、多分祈りよ。味がない里芋のことだけを思い出して。


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