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赤子の見る世界

 

 昔は、所謂「抽象画」というやつがさっぱり理解出来ず、いっそそっぽを向いていたフシがあった。
 実際のところ、初めて惚れ込んだ画家が、中学の時図書館で出合ったダリであり、その後もキリコやムンク、シーレ、バルテュス等……全て流派は違えど、具象の画家たちであった。


 一時絵を描いていた時期もあったが、もちろん一切の抽象を退け、自らの描写力のなさ故なのか、画家としては大嫌いながらもアングルのデッサンなんぞにも憧れ……かえって少しは持っていたらしい(?)感性すら見失うのていたらくであった。

 絵を断念し、小説に拠り所を見つけてからも鑑賞する絵画はもっぱら具象画に限られ、金子国義やドイツの人形作家ハンス・ベルメールの素描などが特にお気に入りであった。

 そんな折り、カントの「物自体」の概念を端緒に、フト抽象画の世界に少しばかり引き込まれることになったのだ。
 「物自体」とは、要は現象の背後にあって、知覚を促す存在のことだろう。学生時代は、そんなものがあるのか? ……と無知の傲慢を以て歯牙にもかけなかったのだが、つらつら考えてみれば、「そんなものは存在しない」という思考こそ不合理ではないかと思うようにもなったわけである。

 言わずもがな、一つの物体を知覚するに、万人全て同じモノを見ているとは限らない。戦も含め、人類のイザコザの根っこは何かと言えば、それぞれが自ら独自に背負ってきた概念、いっそ言葉を以て、別々の世界を見ているからに違いない。
 何故分からないのか? と、一人が言えば、お前こそ、何故分からないのか? ともう一人が反論することになる。
 全人類が同じモノを見ているならば、そんな食い違いも起こらないだろう。

 やはり「物自体」の世界は、存在すると考えた方が妥当なのだ。その謎の世界から言葉というツールを以て、世界を構成する様々な部品を釣り上げてゆく作業こそ、人間の成長というものではないのだろうか。

 「物自体」の世界とは、近年精神分析で唱えられている所の「現実界」に近いのかも知れない。「現実界」とはもとより日常とは縁もゆかりもない、言葉の連鎖に依って構成される幻の世界に違いない。
 一端言葉によって構築された世界を日常として認識している人間にとっては、その背後の「現実界」を認識は出来ないだろう。認識するのが言葉である以上、認識したとたんにそれは「現実界」のモノではなくなってしまう道理である。

 やれやれ……話が脱線しそうである。

 あだしごとさておき……僕が空想したのは、言葉を知らぬ生まれたばかりの赤子の見る世界のことであった。
 断言は出来ないが、あんがい一瞬なりとも、少しでも成長してからでは見ることの出来ない「物自体」あるいは「現実界」を瞥見したのではないかということである。

 以前の記事で、そんな世界はモンドリアンの抽象画のようではないか? ……と綴ったことがあった。
 モンドリアンに限らず、抽象画というものはどこか人を不安にさせる。たぶん人というのは不安から逃れたいがために、何とも知れぬ世界を目の当たりにすると、既存の言葉を尺度として、すなわちアナロジーを以て安心したいのかも知れない。
 よくよく見ると……人の顔に見えてきた……の類いである。

 たぶん……あくまで「たぶん」であるが、それでは抽象画はいくら見詰めても理解は出来そうにない。
 そう。「言葉」を一切放却し、無知な、あるいは無垢な赤子の眼差しを以てあるがままに見詰める時……フトした瞬間、未知の秘密の世界をかいま見ることが出来るかも知れないのだ。

 以上が、僕が抽象画に興味を持ち始めた理由である。
 

 

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