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花嫁人形

 職場に向かう途中に結婚式場があって、時々新郎新婦の写真を撮っている現場に出くわす。
 新婦はウェディングドレスの正装で……やはり人生の頂点なのだろうか、俄然美しく見える。
 僕の好みで言えば……やはり綿帽子の花嫁衣裳なのだが、式場が洋風とあってついぞ見かけない。

 僕は子供のころから……この「花嫁」という言葉に、神秘的な雰囲気を感じて好きだった。
 思えば、幼少期……お袋が子守歌代わりの童謡として「花嫁人形」とか「花影」をよく唄ってくれたものである。結婚に失敗した身としあって……一瞬とはいえ、夢の中にいた「花嫁」というイメージに拘りがあったのかも知れない。

 いずれにしても、どちらの歌にも「花嫁」という言葉が出てくる。

 「花嫁人形」の方には、歌詞の中に、

 ♬金襴緞子の帯しめながら 花嫁御陵は なせ泣くのだろう……

 とあるし、「花影」の方にも、

 ♬花嫁姿の おねえさまと お別れおしんで 泣きました……

 とある。

 子供の僕の感性として……この「泣く」という共通点として……「婚礼」とは真逆の、「葬儀」を連想したものだ。

 かかる感性の混線は、かなり大きくなるまで心に淀みつづけ……小説を書く身として考えるに、今でも「婚礼」には「死」のイメージが色濃いと思っている。

 なぜか。そう。「花嫁」とは一瞬の通過地点であり……その前の存在は、いわば「未婚女性」……その後は「妻」になるわけだ。

 では、その一瞬の通過地点たる「花嫁」とは何なのか?

 ここでもやはり、僕の思考の基本概念の一つである「死と再生」にご登場いただきたい。
 未婚女性は、婚礼の儀式を以て疑似的な「死」を迎え、一時「花嫁」に移行し……そして儀式を終えると同時に「妻」として生まれ変わるのだ。

 蕗谷虹児を援用するならば、「花嫁」とは疑似的死体であるところの「人形」ではないのだろうか?
 和装メイクでも、近頃はあまり「白塗り」はしないらしいが、人形の胡粉の重ね塗りと共通点はないだろうか? まさしく、花嫁人形である。

 先の「花影」の歌詞では、たぶん仲の良かったお姉さんがお嫁にゆき、残された妹の悲しみを歌ったものだろう。

 ドライに考えるならば、何も本当に死んだわけでないのに……と思われるだろうが、果たしてそうだろうか?

 優しいお姉さんは、通過儀礼である「人形」としての「死」を迎え、当然蘇るわけだが……すでにしてかっての「お姉さん」ではなく、「妻」に……要は、別の存在になってしまうのだ。
 妹がいくら泣いても……彼女が心に思う「お姉さん」は二度と戻らない……

 もし僕に「優しいお姉さん」がいて、車に揺られて行ってしまうのなら……やはり泣き出したに違いない。

 「花影」の歌詞の最後は……

 ♬遠いお里の お姉さま わたしはひとりに なりました……

 で、終わる。

 「遠いお里」とは、まさに「黄泉」に違いないのだ。

 

 

貧乏人です。創作費用に充てたいので……よろしくお願いいたします。