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エロスの目覚め その2

 中学二年位だったと思う。その日は、バスに分乗しての博物館などを巡る社会見学だったはず。ただし、朝から天候が悪く、僕は勝手に雨天中止と思い込んでしまい、普段の通学スタイルで家を出た。
 ところが、校庭にはすでにバスが止まっていて、雨天決行と知れた。僕と同じく学習鞄の生徒もいたが……合図を以てバスに乗り込む。

 しかし、その時……僕は一人、友達や先生の目を避けて、バスとは反対の校舎に走り込んだのだ。
 遠足もどきの社会見学など糞を食らえ……僕は、たった一人の教室を、天の与えてくれたアトリエと認識したのだ。

 誰もいない教室の、自分の席に腰掛けた時の解放感は今でも覚えている。何年もの間、頭の中に渦巻いていたエロスの世界を、思う存分表現出来ると考えたのだ。

 僕はさっそく時間割どおりに一時間に一枚ほど……自分が空想し想像した世界を……引きちぎったノートに描き始めた。受験勉強の、百倍は集中したと思う。

 どんな絵を描いたのか……今思い返しても判然とはしないのだが、一般の生徒達が夢想するような女性のヌードでも、恋人同士の営みでもなかった。
 そう。僕が鉛筆と色鉛筆を以て描き上げた細密画は、生を謳歌する「エッチ」の世界では断じてなく、いっそ死の賛歌にも似た。
 乱歩の小説などは、まさにバイブルでもあった。

 ……僕は確かに一人の少女……クラスの美少女(中学に上がった時、初めて美しいと思った)をイメージして……その溌剌とした生が、死に移りゆく様を描いたらしい。

 ……殺人狂さながらに、いろんな殺しが展開されたはず。矢が突き立ち、血の海に倒れ、呼吸をとめた少女の死体。氷柱に閉じ込められた、人形そのままの死体。フェティシズムからネクロフィリアまで、僕の歪んだエロスが六、七枚のシリーズに定着される。当時ははまだ知らなかったが、ドイツの人形作家ハンス・ベルメール風の、肉体のパーツを組み替えたオブジェもその一枚であった。
 少なくとも、僕が想像した世界は「エッチ」とは程遠い、涙を流すサド侯爵に近かったのかも知れない。

 思えば当時、つい転校してきた男子で、些か不良ぶってはいたが、やたら漫画が上手く、僕達の目の前で……女の子の裸などの、いっそ健全な絵を描いて人気者になっていたのだが……仮に僕の作品をみんなに見せても、たぶん誰もそこに「エッチ」は見いだせなかっただろう。
 それでも僕は、描き上げた作品群を目の当たりに、確かに何かを悟った気がしたものだ。人間とは、かくも狂気を孕む生き物なのか……と。

 後年、僕が文学に目覚め……そこに、時として異常性欲にも近い描写が出てくるとすれば、たぶんその時の感性が土台になったことに間違いは無い。
 文学的アイドルに躍り出た安部公房の、最も愛する作である「密会」の不気味なエロスを感じ得たのも、当の体験に繋がっていたのだろう。

 いずれにしても、僕は描き上げた作品を黒板に貼り付け、机に腰掛けて、随分長いこと鑑賞していたと思う。教室はその時、僕だけのための暗黒美術館であった。
 犯罪と芸術は、その時明らかに同居していたのだ!

 運良く、僕は、教室という狂気のアトリエに止まっているのを誰からも見咎められることはなかった。

 やがて、六時限の授業の終了を知らせる鐘が鳴る。
 最後の儀式の時間……
 僕は、生まれて初めて定着した、掛け替えのないエロスの世界を躊躇いも無く引き裂き、ご丁寧に水で濡らし、さらに丸め……何が描かれていたかも判らぬように始末して……ゴミとして捨て去った。僕なりの、生と死の儀式であった。

 僕はその瞬間、少し泣いてしまったのを覚えている。生と死……そしてエロス。ガキの分際ながら、何かを感得し、頭の中で歯車が一つ、カチリと回ったのだと思って……

貧乏人です。創作費用に充てたいので……よろしくお願いいたします。