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自分は支配されることを望んでいた?

私は今、オンラインでの学びの場で「自分とは」について考えています。今朝、悩みの一つについて解決のきっかけを、突然思いつきました。

親に強く支配されてきた人は、親から離れても支配してくれる存在に惹かれる…。支配される事は苦しい。でも、支配される事に慣れており、現状維持は楽だから。

そんなのあるんかな?って思ったけど、これを聞いた瞬間、心の中のザワザワを感じました。

最近、SNSや会社でよく見かけるのが、会社員を辞めますという話。また、自分のやりたい事に邁進して凄く輝いている姿。
すごいな〜羨ましいな〜と思う反面、何かモヤモヤがありました。

(会社員じゃない人が、輝いているのを見るのが辛い)(自分は、会社員でいる事以外は想像できない)
(会社員ってそんなにダメ?)
(他人に使われるってそんなにイヤ?)
(でも、会社員ってなぜかわからないけど、イヤ)

ずっとこのよくわからない思考のループにハマっていました。いったい自分は何に囚われているんだろう…。

環境のせいにしていました。

育った環境、今の家庭環境から、自分のやりたいことをやるという選択が出来ない。なので、それを実現している人を見て、私が諦めた世界へ行こうとする姿を見るのがとても辛い。でも、それを非難するものでもない、人それぞれの、生き方の違い。喜んで応援しよう。

と自分を納得させていました。
どこか、そうじゃない気もすると違和感を感じながら。
だって、自分が諦めた世界も何も、自分のやりたい事を考えたこともないんですから。

その答えが、今さっき降ってきました。

私は「支配されることを望んでいる」なんだという事。

支配されることから脱却した人を見るたびに、心が締め付けられてきました。声にならない、明確な思いにもならなかった心のザワザワ。

私にとって1番の不快対象は「自分勝手に動く人」
でも、自分勝手に動くとは、何者にも支配されずに自分で考えて自己責任で行動する人、ですよね。
これを嫌っている私は、自分自身にその行動を取られせることを受け入れていないということ。

私にとって1番の行動原理は「協調性」
でも、協調性とは、自分の行動を他者に委ね制限することでもありますね。社会で必要なことではあるけど。

支配されることを望みながら、支配される苦しみと対峙している。この苦しみを和らげるために、自分を守るために様々な解釈を考え出す。それは、親から支配を受け親を否定できずに自分を変えていた名残りなのかも。

そして、環境が変わるたびに新たな宿主を求める…。

これは自分にとって、とても恐ろしい発見だ。

私はいつも、支配してくれる存在を探している。

会社に支配されたい。
上司どころか部下にも支配されたい。

家族に支配されたい。
親どころか子供にも支配されたい。

ほんとかな、とも思うけどきっとそうなんだろう。

そのためにはいくつもの自分を演じなければならないが、それも慣れてしまえば簡単にできる。

自分の感情を、感じなければいいのだから。

本当に感じなくなりました。

でも、消えて無くなった訳ではなく、圧縮して蓋をしていただけだった。

真に知るとは、行動が変わること。

さあ、この蓋に手をかけて開けるのか、怖いからまだ眺めているのか、どうしようかな…?

支配されることを望むにしても、自覚していればその意味は全く異なるものになる。

いや、自覚した時からそれは、支配されるでは無くなっていますね。

自分が最も会いたいのは、自分自身なのかもしれない。

また一枚、玉ねぎの皮が剥がれたかな?


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