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Lebenszeichen(生きているしるし、消息)

コーヒーを外で飲まなくなってもう何ヶ月になるのだろうか。あまりにもその時間が長くなりすぎて、「ちょっとコーヒーでも」という思いつき自体をほぼ忘れてしまった気がする。そんな私に「まあそう言わず、寄っておいきよ」と声をかけてくれたのは、歩道の真ん中に置かれたこの看板。黒板に白いマーカーで綴られた文字はちょっと横長で直立不動な感じ。ドイツ語圏スイスでは非常にスタンダードな手書き文字のスタイルだ。曰く、


コーヒーがあるところには、希望もある。

そして、ここにはいつもコーヒー、ありますよー


簡潔ににして抗いがたいこの誘い文句。間口が狭い小さな店なのにコロナ対策で「入り口」「出口」が別だてになっているうちの「入り口」のドアを開けて中に入るまでに数秒もかからなかった。

中に入ってみれば先客がすでに三人。最初の二人は友達同士か何からしく、カウンターのところで肩を寄せ、注文済みの飲み物を待っているところ。その後ろは男性一人。ちゃんとディスタンスを守って、前の二人組から1メートルくらい離れたところに立っている。私も真面目にディスタンスを守ってさらにその1メートル後ろに立つ。大きく息を吸い込んで、思わず目をつむる。なんとまたかぐわしい香りだろうか! 

こんな風にしてコーヒーの香りを注意深く味わったのも何ヶ月ぶりのこと、いや、ひょっとして一年ぶりくらいなのかもしれない。そう、その日はスイスで初のコロナ感染者が発生してからちょうど丸一年(正確にはプラス数日だけど、まあいい、およそ一年きっかり、というイメージで時間感覚を鷲掴みにするのである)。平凡すぎて今さら口にするのも恥ずかしいが、それにしてもまたなんという一年だったことか。

カウンターを挟んで向こう側にはお店のお兄さんが二人。揃って黒い髪やまつげの長い目、ちょっと濃いめの顔立ちから、南欧のどこかからやってきた人、に見えるけれど、それは親の代の話で、本人たちはここで生まれ育っているのかもしれない。二人組のお客さんは馴染み客なのだろうか、とても親しげに「バナナケーキ追加ね、オッケー」などと話している。ちょうどその二人組が「ありがとう。チャーオ」と言って店を後にするのと入れ替わりに、人が一人、入ってきた。「出口専用」のドアからの堂々たる入店。

しかしそれを咎めるでもなく、お兄さんの一人が「やあ、こんにちは。元気?」と声をかける。

「はいはい、元気よ」

私の立っているところからは彼女の背中しか見えないが、その背中は丸く曲がっていて、足元もヨチヨチと少し頼りない。頭を覆ったスカーフからは、投げやりな感じで白髪がはみ出ている。

「お天気、冴えないねぇ」とお兄さん。

「寒いわねぇ」

彼女の声はモゴモゴしていて聞き取りにくいが、お兄さんにすっかり頼り切るその様子から、どうもこの店の常連らしいことが見て取れる。

少しよろけるようにして、彼女がお兄さんの方に二、三歩近づいた。とっさに、私の前の男性客が小さく二、三歩、後ろへずれる。1メートルの距離を保つためだ。いきおい平行移動で私もまた少し後ろへ下がる。店のお兄さん、そんな私たちの様子を目の淵で目ざとくキャッチ、カウンターの端から半身、外へ出てきて、柔らかな腕の動きで「さあ、こちらへ」とスカーフの客をさりげなく元の位置に誘導する。同時に私たちの方に「ごめんなさいね」と目配せ。そして改めてスカーフのお客さんに向かって、

「コロナだからね、ちょっと離れないとね、まずいでしょ」

「ああ、そうだったね、そうだったね」

そうこうするうちに、男性客が注文したドリンクが出来上がり、「ありがとう、ごちそうさま」と言って彼は出て行く。この時点で、私はすでに、スカーフのお客さんが先に注文しても別にいいよ、というつもりでいた。案の定、彼女は再びカウンターにヨチヨチと歩み寄り、「えーっとぉ」と口を開きかけた。先程来のお兄さん、またまた柔らかい仕草と「ちょっとまって」という口の動きでその続きを制し、「まだお客さん、二人いるでしょ、ほら」と私が立っている方を目で示す。「ね、だからもうちょっと待っててね、いいかな? 大丈夫?」と確認を取る。

その時、初めて彼女の横顔がはっきり見えた。頬にも額にもたくさんのシワが刻まれ、目は少しうつろ。想像していた通りだった。

「はいはい、大丈夫」

うんうんとうなずくおばあさんはどこまでも屈託なくのんびりくつろいでいる。やっぱりここの馴染みなのだろう。

テイクアウトとはいえ、何しろ久しぶりのカフェだ。ここはやっぱりエスプレッソだろう。

「エスプレッソひとつ、ください」

「エスプレッソひとつ、了解」

シューッという勢いの良い音を響かせ、あっという間に出来上がり。小さな紙コップの下一センチくらいの高さにいかにも「リストレット」という凝縮した姿でそれは横たわり、そして表面には業務用のマシーンでしか叶わない素敵な泡がのっかっている。わーい。

お金を払おうとしたら「ごめんなさい、コロナでカードのみでいただいています」とお兄さん。あ、そうかそうか、そうだったね。普段、スーパーなどではどんな少額でもカードで払っていることをすっかり忘れ、財布の小銭入れを大きく開けている自分。長らく使ったことのない小銭の群れを指先でかき分けている自分。やはりあまりに久々の「外のコーヒー」で、私もまたハイになり、少し上の空だったのかもしれない。

いや、上の空になったのは、コーヒーのせいだけではないのだろう。私の息子とさほど変わらない年齢のそのお兄さんが、おそらくは認知症を患っているおばあさんにとても優しく接していた、その仕方が、あまりに自然で板についていることにすっかり見ほれてしまったせいもあったのだと思う。そのお兄さんは、そうして馴染みのおばあさんにどこまでも優しく接しつつ、他のお客さんの様子にも目配りを怠らず、その上、コーヒーを入れる仕草には職業人の熟練だけが見せる簡潔で無駄のない美しさがあった。

遠くに住む家族や友人に会えないことはもちろんさみしい。近くに住む親しい人たちと食卓を囲めないこともものすごくさみしい。けれど、それと同じくらい、あるいはもしかしたらもっと恋しいもの、それはひょっとしたら「世間」というやつかもしれないな、と思った。

相変わらず、そこにぴょこんと立ち尽くしているおばあさんの脇を「ごめんなさい」と通り抜けて「出口」のドアから外に出た。歩道の真ん中でエスプレッソをクイッと一気に立ち飲み。ジワリと苦く、どろりと深く、それはそれは美味しいコーヒーだった。

自分が彼らの年齢のとき、高齢者が視界に入ることなど滅多になかったし、たとえ入ったとして、どのくらい自分は自然に優しくいたわりを持って彼らに接することができていたか、と思い返してみるだに、心もとないことこの上ない。その自分自身が、今、確実に、高齢者の方角に向けて邁進中である。しかし後ろには優しく賢く、私たちの頃よりもずっとしなやかで偏見や固定観念からも自由にものを見られる若者たちがたくさん控えてくれている。それをその日、たった数分間接しただけの「世間」は垣間見せてくれた。

なるほど、コーヒーあるところには希望がある。

曇天広がる三月。たまには外に出てみるもんだ、とつくづく思った。



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