長坂道子

エッセイスト。チューリッヒ&パリ在住。 初めての文芸翻訳『ジャコブ、ジャコブ…

長坂道子

エッセイスト。チューリッヒ&パリ在住。 初めての文芸翻訳『ジャコブ、ジャコブ』(ヴァレリー・ぜナッティ)を上梓しました。 近著に『アルプスでこぼこ合唱団』(KADOKAWA)『パリ妄想食堂』(角川文庫)『神話・フランス女』(小学館)『難民と生きる』(新日本出版社)など。

最近の記事

エコーチェンバーに穴は開くか

イスラエルのハアレツ紙に掲載されたユヴァル・ノア・ハラリの記事を紹介したい。ハラリ氏はイスラエルの著名な歴史学者だが、昨年の10月7日以降、荒波に呑まれて羅針盤もぶっ壊れてしまったかのような私に、氏は度々、希望と落ち着きの視点を与えてくれてきた。今回もまた然り。それにしてもこんな状況の中、希望と落ち着きを保ち続けるのは、本当に難しい。さすがの氏も、文章越しのその声が、わずかにかすれ、震えているように聞こえるのは気のせいだろうか。 「ガザからイランへーーイスラエルの生存を危う

    • 聞き耳を立てずとも(チベット編)

      昨日、パリ入り。現在、パリのアパートが工事中なので、その様子見、建築家との細かい話などが今回の案件だ。何しろものすごい埃とペンキの匂いなので室内でご飯を作って食べる気には到底なれず、その辺で何か適当に、というところで思いついたご近所チベット料理屋さん。 チベット餃子、モモを肴に、ワインをちびちびやっていると、店の奥から話し声が聞こえてきた。私の座っている位置からその顔は見えないけれど、ああ、さっき入ってきた人だな、となんとなく想像がついた。その客が、店の女主人と来たるパリ・

      • 2024年2月9日、もう一つの訃報ーーロベール・バダンテールさん

        いつもの犬散歩。歩き慣れた道だけれど、毎回、そこからチラリと頭をのぞかせるパンテオンの控えめな姿が大好きで、しかも道に少し勾配があるのか、数歩歩くとその姿が忽然と消える、そんな儚さも大好きで、だからパリにいるときはこの道を好んで歩く、セーヌ川の方からサンジェルマン大通りに向かう方向で。 この道が好きな理由はもう一つある。かつて私がパリに暮らしていた頃、この道の入り口には必ず警察の車が停まっていて、用事のない一般人がそこを通り抜けることは叶わなかった。ある時、誰かが教えてくれ

        • モロッコのユダヤ人

          いくつかの言葉を知れたことは、ひょっとしたら我が人生、最大の宝だったかもしれない。AI翻訳時代到来とはいえ、自分の身体と感情と知性を総動員して一つの言葉と向き合うーーたとえそれが小さな新聞記事一つを読むというような状況であったとしてもーー体験の一つ一つは、「ある時代の地球のどこかにたまたま生まれ落ちた」こと、つまりそれ自体は決して変えることのできない宿命から、都度、ほんの少しだけ自由にしてくれるような気がするからだ。 で、数日前にもまたそんな体験に遭遇。スイスの新聞NZZに

        エコーチェンバーに穴は開くか

          ああキレイ、とばかりもいってられない

          一週間ほど前まで、パリはとても寒かった。朝の気温がマイナス5度を下回ると、アパートの暖房も効きが悪くなる。普段のスイス暮らしでマイナス5度くらいは慣れているとはいえ、手袋をしていても指先がジンジンと痛くなる寒さだ。 そんな中、でもせっかくだから、と街をテクテクと歩く。雪だるまみたいに着込み、パンを買いに、犬の散歩に、銀行の用事を片付けるために、あちこち歩く。パリの名物、グレーで統一されたザンク(亜鉛)の屋根にうっすらと雪化粧が施され、この上なく美しい。澄み渡った寒空に映える

          ああキレイ、とばかりもいってられない

          ベルリンのイスラエル人

          今日のル・モンド紙にとても興味深い記事があった。題名は 「安全な場所がなくなってしまうのではと案ずるイスラエル人たち」 記事によれば、ドイツの首都ベルリンには、現在、1万〜1万5千人のイスラエル人が住んでいる。二重国籍者の多くはこの統計に含まれないそうなので、実際の数はさらに多いのだろう。ネタニヤフ政権に象徴されるイスラエルの政治に嫌気がさしたから、ハイテックを始めとする仕事のチャンスやコスモポリタンで自由な雰囲気に溢れるベルリンという街に惹かれたから、あるいは他の大都市

          ベルリンのイスラエル人

          言葉が出ないーー今、ガザで起きていること

          10月7日の朝、一本の電話で私たちはその出来事を知った。 「大変なことになった」   電話の主はイスラエルの友人。慌てて速報ニュースを確かめ、イスラエルがハマスによる攻撃を受けたこと、多くの犠牲者が出たらしいことを知った。 その日のうちに、彼の息子さんと娘さんが前線へ召集された。イスラエルは男女共に兵役があるが、彼の3人の子供たちのうち2人は本人の希望で兵役後も軍隊に勤務していた。息子さんは医療班、娘さんは教育班。小さい頃からよく知る2人が「なぜ軍人の道を?」と私には腑に

          言葉が出ないーー今、ガザで起きていること

          続・『アルプスでこぼこ合唱団』

          スイスで恐る恐る入団した日から、間もなく6年。その間の山あり谷あり、落ち込みあり、発見あり、感動ありの体験を綴った拙著『アルプスでこぼこ合唱団』の刊行からは一年ちょっと。 あの本では、指揮者ハンナがドイツの音大に職を得て合唱団を去ることになり、彼女との最後のコンサートを感動のうちに無事終えたところで話が終わっている。 そうして始まった二章目の只中に現在、身を置いているのだが、実は思いがけない展開により、でこぼこ合唱団の運命は予想外の方向へ、、、、。 急カーブが切られ、、

          続・『アルプスでこぼこ合唱団』

          行きと帰りと、その間

          “行き” 昨年12月の8日に到着。年明けて3日に出発。長い日本滞在だった。諸事情あって実家に泊まるというオプションがないため、また今回は途中から家族(夫と息子、娘)がそれぞれスイス、アメリカ、英国から合流するという大人数編成なため、都合、ずっとホテル住まい。そのせいもあってか、心情的には帰国ではなく、訪問。日本は帰るところではなく、行くところ。思えばそれがデフォルトになってもうずいぶんになる。 「行くところとしての日本」への入り口は、往路の機内で見た一本の映画だった。日本

          行きと帰りと、その間

          ウクライナ戦争とソルジェニーツィンーー近所で遭遇した臨場感の一角

          パリのアパートの近所には本屋さんがものすごく多い。パンテオンやソルボンヌが近いせいもあるのだろう、人文学の各分野専門書店からイスラム教の専門店、カルトや漫画やミステリ特化の古本屋まで、驚くほど幅広いラインナップ。これだけ数があって、一体どうやって経営が成り立っているのだろうと、散歩するたびに心配になるくらいだ。 そんな中の一軒。かれこれ一年くらい前、例によってぶらぶら散歩している途中、その店のショーウインドーに目が止まった。一目で、あ、あの話だ、と見当がつく本が、そこにひっ

          ウクライナ戦争とソルジェニーツィンーー近所で遭遇した臨場感の一角

          緩やかなグレーゾーンを直視する

          「男なら行列作りますよぉ」 パリ行きのTGVが間もなく終着駅のガール・ドゥ・リヨンに着く。小型のスーツケースを転がして車両連結部にある出口の方へ向かうと、すでに先客が数人。私のスーツケースの二倍ほどはある大きな荷物を携行し、山から直行したのかな、と思わせるハイキング用の上着をお召しになった白髪のご婦人二人に、気の良さそうなおじさんが話しかけている。立っている位置から察するにどうやら三人とも二階席から降りて来た模様。 「ドイツ語圏スイスの方ですか?」 「いえいえ、オーストリア

          緩やかなグレーゾーンを直視する

          怠惰な旅人の覚え書き@ニューオルリンズ

          綿密な計画がそもそも大の苦手なので、勢い、旅は行き当たりばったりになる。しかも今回はコロナ到来以来、初めての遠出。勝手が分からず、勘も働かず、しかもその間、年もとっているので、気力体力、いずれも衰えている。 ニューオルリンズ、実は長年の憧れの地だった。アメリカには二年と二ヶ月暮らしたけれど、そして家族は私以外、全員、アメリカのパスポートを持っているけれど、ニューオルリンズをはじめ、南部は未踏の地。そしてそこは「ジャンバラヤ」やら「クレオール」やら「ミシシッピ」やら、旅心をむ

          怠惰な旅人の覚え書き@ニューオルリンズ

          他人事でない、この戦争

          2022年2月23日の朝、その日の未明にロシア軍がウクライナに攻撃をした、というニュースに触れた。その二時間後、今度はスイスの友人Tが「妻子を救い出すために、急遽、ポーランドへ飛ぶ。その後はレンタカーして陸路、国境を超え、キエフに滞在している妻と5歳の娘を連れ帰る」というメッセージを残して、すでに出発したことを知った。 Tと、その妻、そして娘も含め、その家族とは、家族ぐるみの付き合いだった。「だった」と過去形で書いたのは、夫のTが、とあるパーソナルな出来事をきっかけに、陰謀

          他人事でない、この戦争

          「アルプスでこぼこ合唱団」

          新刊を上梓しました。 縁あって、というか成り行きで、スイスに住むようになってから早いもので二十年余り。なのに単行本という形でスイスについて書くのは、実はこれが初めてです。その理由は本書をお読みいただければお分かりになると思います。 合唱という営みのあれこれについて綴りながら、これはまた、一人の頼りなく、情けない「透明人間」が、不器用に、時にみじめったらしく、時に健気にそれでもなんとか自分の居場所を築いていこうともがく話でもあります。 ブラックアンドホワイトも勧善懲悪もハ

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          今日はユダヤ教のニューイヤー(ロシュ・ハシャナ)、だそうで、親しくしているご家族からお祝いの宴に招かれた。フルーツかハチミツか花を手土産にするという習慣があると聞き、じゃあ美味しいハチミツ買っていこう・・・そう思い立って、パリのムフタール地区にあるハチミツ屋さんへ。 壁一面を埋め尽くすハチミツの瓶たちの中から、ホストのマダムへはチュニジアのアーモンドの花、その二人の息子さんたち(といっても私と同世代くらい)には南仏のラベンダーとコルシカ島のアスフォデルの花のハチミツをそれぞ

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          「ワクチン打つ、打たない?」

          スイスのワクチン接種率は8月31日時点で57.88パーセント(一回接種済み)。思ったより低い。二回接種完了はさらに低く、51.76パーセント。 ざっくりと、二人に一人ちょっとくらいしかワクチン接種をしていない、というのがこの国の現実。ワクチンは十分に供給されており、接種会場はもう何週間もガラ空き、ということをみれば、これから劇的に接種率が上がるとも思えない。疾患、アレルギー、その他の理由で「接種したくてもできない人」を除く大半は、「積極的な意思で接種しないことを選び取った人

          「ワクチン打つ、打たない?」