長坂道子

エッセイスト。チューリッヒ&パリ在住。 初めての文芸翻訳『ジャコブ、ジャコブ…

長坂道子

エッセイスト。チューリッヒ&パリ在住。 初めての文芸翻訳『ジャコブ、ジャコブ』(ヴァレリー・ぜナッティ)を上梓しました。 近著に『アルプスでこぼこ合唱団』(KADOKAWA)『パリ妄想食堂』(角川文庫)『神話・フランス女』(小学館)『難民と生きる』(新日本出版社)など。

最近の記事

言葉が出ないーー今、ガザで起きていること

10月7日の朝、一本の電話で私たちはその出来事を知った。 「大変なことになった」   電話の主はイスラエルの友人。慌てて速報ニュースを確かめ、イスラエルがハマスによる攻撃を受けたこと、多くの犠牲者が出たらしいことを知った。 その日のうちに、彼の息子さんと娘さんが前線へ召集された。イスラエルは男女共に兵役があるが、彼の3人の子供たちのうち2人は本人の希望で兵役後も軍隊に勤務していた。息子さんは医療班、娘さんは教育班。小さい頃からよく知る2人が「なぜ軍人の道を?」と私には腑に

    • 続・『アルプスでこぼこ合唱団』

      スイスで恐る恐る入団した日から、間もなく6年。その間の山あり谷あり、落ち込みあり、発見あり、感動ありの体験を綴った拙著『アルプスでこぼこ合唱団』の刊行からは一年ちょっと。 あの本では、指揮者ハンナがドイツの音大に職を得て合唱団を去ることになり、彼女との最後のコンサートを感動のうちに無事終えたところで話が終わっている。 そうして始まった二章目の只中に現在、身を置いているのだが、実は思いがけない展開により、でこぼこ合唱団の運命は予想外の方向へ、、、、。 急カーブが切られ、、

      • 行きと帰りと、その間

        “行き” 昨年12月の8日に到着。年明けて3日に出発。長い日本滞在だった。諸事情あって実家に泊まるというオプションがないため、また今回は途中から家族(夫と息子、娘)がそれぞれスイス、アメリカ、英国から合流するという大人数編成なため、都合、ずっとホテル住まい。そのせいもあってか、心情的には帰国ではなく、訪問。日本は帰るところではなく、行くところ。思えばそれがデフォルトになってもうずいぶんになる。 「行くところとしての日本」への入り口は、往路の機内で見た一本の映画だった。日本

        • ウクライナ戦争とソルジェニーツィンーー近所で遭遇した臨場感の一角

          パリのアパートの近所には本屋さんがものすごく多い。パンテオンやソルボンヌが近いせいもあるのだろう、人文学の各分野専門書店からイスラム教の専門店、カルトや漫画やミステリ特化の古本屋まで、驚くほど幅広いラインナップ。これだけ数があって、一体どうやって経営が成り立っているのだろうと、散歩するたびに心配になるくらいだ。 そんな中の一軒。かれこれ一年くらい前、例によってぶらぶら散歩している途中、その店のショーウインドーに目が止まった。一目で、あ、あの話だ、と見当がつく本が、そこにひっ

        言葉が出ないーー今、ガザで起きていること

          緩やかなグレーゾーンを直視する

          「男なら行列作りますよぉ」 パリ行きのTGVが間もなく終着駅のガール・ドゥ・リヨンに着く。小型のスーツケースを転がして車両連結部にある出口の方へ向かうと、すでに先客が数人。私のスーツケースの二倍ほどはある大きな荷物を携行し、山から直行したのかな、と思わせるハイキング用の上着をお召しになった白髪のご婦人二人に、気の良さそうなおじさんが話しかけている。立っている位置から察するにどうやら三人とも二階席から降りて来た模様。 「ドイツ語圏スイスの方ですか?」 「いえいえ、オーストリア

          緩やかなグレーゾーンを直視する

          怠惰な旅人の覚え書き@ニューオルリンズ

          綿密な計画がそもそも大の苦手なので、勢い、旅は行き当たりばったりになる。しかも今回はコロナ到来以来、初めての遠出。勝手が分からず、勘も働かず、しかもその間、年もとっているので、気力体力、いずれも衰えている。 ニューオルリンズ、実は長年の憧れの地だった。アメリカには二年と二ヶ月暮らしたけれど、そして家族は私以外、全員、アメリカのパスポートを持っているけれど、ニューオルリンズをはじめ、南部は未踏の地。そしてそこは「ジャンバラヤ」やら「クレオール」やら「ミシシッピ」やら、旅心をむ

          怠惰な旅人の覚え書き@ニューオルリンズ

          他人事でない、この戦争

          2022年2月23日の朝、その日の未明にロシア軍がウクライナに攻撃をした、というニュースに触れた。その二時間後、今度はスイスの友人Tが「妻子を救い出すために、急遽、ポーランドへ飛ぶ。その後はレンタカーして陸路、国境を超え、キエフに滞在している妻と5歳の娘を連れ帰る」というメッセージを残して、すでに出発したことを知った。 Tと、その妻、そして娘も含め、その家族とは、家族ぐるみの付き合いだった。「だった」と過去形で書いたのは、夫のTが、とあるパーソナルな出来事をきっかけに、陰謀

          他人事でない、この戦争

          「アルプスでこぼこ合唱団」

          新刊を上梓しました。 縁あって、というか成り行きで、スイスに住むようになってから早いもので二十年余り。なのに単行本という形でスイスについて書くのは、実はこれが初めてです。その理由は本書をお読みいただければお分かりになると思います。 合唱という営みのあれこれについて綴りながら、これはまた、一人の頼りなく、情けない「透明人間」が、不器用に、時にみじめったらしく、時に健気にそれでもなんとか自分の居場所を築いていこうともがく話でもあります。 ブラックアンドホワイトも勧善懲悪もハ

          「アルプスでこぼこ合唱団」

          「見かけ」フィルター

          今日はユダヤ教のニューイヤー(ロシュ・ハシャナ)、だそうで、親しくしているご家族からお祝いの宴に招かれた。フルーツかハチミツか花を手土産にするという習慣があると聞き、じゃあ美味しいハチミツ買っていこう・・・そう思い立って、パリのムフタール地区にあるハチミツ屋さんへ。 壁一面を埋め尽くすハチミツの瓶たちの中から、ホストのマダムへはチュニジアのアーモンドの花、その二人の息子さんたち(といっても私と同世代くらい)には南仏のラベンダーとコルシカ島のアスフォデルの花のハチミツをそれぞ

          「見かけ」フィルター

          「ワクチン打つ、打たない?」

          スイスのワクチン接種率は8月31日時点で57.88パーセント(一回接種済み)。思ったより低い。二回接種完了はさらに低く、51.76パーセント。 ざっくりと、二人に一人ちょっとくらいしかワクチン接種をしていない、というのがこの国の現実。ワクチンは十分に供給されており、接種会場はもう何週間もガラ空き、ということをみれば、これから劇的に接種率が上がるとも思えない。疾患、アレルギー、その他の理由で「接種したくてもできない人」を除く大半は、「積極的な意思で接種しないことを選び取った人

          「ワクチン打つ、打たない?」

          大いに気に入った

          東京やパリやニューヨークはもちろん、テルアビブやベイルートやハノイなどと比較しても、私の暮らす街チューリッヒは、外食の楽しみは格段に低いというのが残念ながら正直なところ。 海もなく、豊穣な平地に乏しい、といった自然条件に加え、ここの人たち、基本的に食い意地が張ってない。享楽を求める先に、食べる楽しみというのが上位入賞してこない。そうした文化的な背景は絶対にあると思う。 味付けが妙にしょっからいところが多く、私の嫌いなグルタミン酸がいろんなものにたっぷり入っているのも個人的

          大いに気に入った

          地球のこっちとあっちにたまたま生まれ落ちて

          昇天祭の休日と週末に挟まれた金曜日。天気予報では雨のはずが、ぽっかりと晴れた。思い立って朝市に出かけ、その近所に住むコンゴからの友人Aさんに「コーヒーでも飲まない?」と声をかけてみた。長引くコロナ下のスイスで飲食店は屋外のみ営業が許されているので、晴れないと外でコーヒー一杯飲めない。雨天続きの5月。こんな機会はまたいつ訪れるとも限らない、思い立ったが吉日、カルペディエムである。 コンゴからの友人、と書いたけれど、そしてその思いに偽りはないけれど、彼女はまた、コンゴからの難民

          地球のこっちとあっちにたまたま生まれ落ちて

          2021年、初めての買い物

          英国の大学の最終学年(三年目)に在籍する娘が、コロナ措置のため大学に戻れず、スイスの家でオンライン授業を受けてきた冬学期もいよいよ終了。あとはイースター休暇を挟んでやはりオンラインで試験、卒論提出と怒涛月間を経て、誰にも会わないままのあっけない卒業になる段取り。大学生活「最後の授業」が終わったその日、彼女なりにこみ上げる思いもあったのだろう、「久しぶりに街にでも行かない?」と母の私を誘う。街、といっても昨年末より飲食店はすべて閉まったままだけれど、少し前から小売店は営業再開。

          2021年、初めての買い物

          翻訳は誰のもの?

          バイデン大統領の就任式でアマンダ・ゴーマンさんが朗読した自作の詩「The Hill We Climb」の翻訳を巡り、いろいろなニュースや議論が飛び込んでくる。 最初はオランダからの一報。 ほぼ、本決まりだった翻訳候補者が、「その肌の色がふさわしくない」という理由で批判の嵐に合い、結局彼女は翻訳を辞退した。昨年、インターナショナル・ブッカー賞を史上最年少(29歳)で受賞したマリエケ・ルカス・リーネフェルトさんだ。リーネフェルトさんは、ジェンダー平等や精神疾患等についても率直

          翻訳は誰のもの?

          Lebenszeichen(生きているしるし、消息)

          コーヒーを外で飲まなくなってもう何ヶ月になるのだろうか。あまりにもその時間が長くなりすぎて、「ちょっとコーヒーでも」という思いつき自体をほぼ忘れてしまった気がする。そんな私に「まあそう言わず、寄っておいきよ」と声をかけてくれたのは、歩道の真ん中に置かれたこの看板。黒板に白いマーカーで綴られた文字はちょっと横長で直立不動な感じ。ドイツ語圏スイスでは非常にスタンダードな手書き文字のスタイルだ。曰く、 コーヒーがあるところには、希望もある。 そして、ここにはいつもコーヒー、あり

          Lebenszeichen(生きているしるし、消息)

          開かない扉

          マイナス10度くらいの寒さが続くチューリッヒ。相変わらず、店々は閉まっているし、人との集まりも確か5人以上は原則、禁止の日々。その上、急な坂道に四方を取り囲まれるところに住んでいるため、あちこち凍って滑りやすく、うかうか散歩にも出られない。ほぼ引きこもり状態で生きているが、にもかかわらず、花粉症は律儀にやってくる。雪空の下、凍りついた木々の一体どこから花粉が飛び出してきて締め切った家の中にまで侵入してくるのか。窓の外の雪景色を眺める目が痒くてたまらない。 2019年の秋頃だ

          開かない扉