見出し画像

2024年2月9日、もう一つの訃報ーーロベール・バダンテールさん

いつもの犬散歩。歩き慣れた道だけれど、毎回、そこからチラリと頭をのぞかせるパンテオンの控えめな姿が大好きで、しかも道に少し勾配があるのか、数歩歩くとその姿が忽然と消える、そんな儚さも大好きで、だからパリにいるときはこの道を好んで歩く、セーヌ川の方からサンジェルマン大通りに向かう方向で。

この道が好きな理由はもう一つある。かつて私がパリに暮らしていた頃、この道の入り口には必ず警察の車が停まっていて、用事のない一般人がそこを通り抜けることは叶わなかった。ある時、誰かが教えてくれた。

「あの道にミッテランのアパートがあるんだよ」

まさにその当時、ミッテランはフランスの大統領。ああ、それで、と合点がいった。

一国の大統領を務めた人の住まいにしては、しかしそれは本当に目立たぬ質素なアパート。ミッテランはそこに1971年から亡くなる1995年まで、妻のダニエル・ミッテランはその後も同じアパートにやはり2011年に亡くなるまで住み続けたそうで、今はその建物の隣が小さな公園になっていて「ダニエル・ミッテラン・スクエア」という名前がついている。界隈はいつもひっそりとしていて、けれどその静けさの中に、世界はこれから良くなっていく、と信じられたあの頃の楽天的な空気が声を潜めて生きながらえているような「錯覚」に陥る。その錯覚、あるいは夢。それがこの道を私が好きなもう一つの理由なのだ。

道の名前はビエーヴル通り。ミッテラン夫妻の住まいがあったのは、その22番地だ。

ミッテラン大統領夫人へのオマージュにダニエル・ミッテラン・スクエアと名付けられた静かな
公園。ミッテラン氏同様、彼女も第二次世界大戦時にはレジスタンスに参加していた。
ダニエル・ミッテラン財団を創設、人道活動にも積極的に関わった。


波に呑まれてしまったその訃報

あの頃は、ミッテランもそうだし、今では見る影もないフランスの社会党に何しろ勢いがあって元気な時代だった。自分も若くて元気なスポンジだったから、そんなフランスからたくさんのことを学んだ。下宿先の女主人、80代のマダムは熱心なミッテラン支持者で、彼女からよく政治談義を聞いたものだった。自分のフランス語が思い切り下手だったせいもあるけれど、テレビで見るミッテランの演説があまりにかっこよくて、フランス語ってなんて美しい言葉なのだろうとうっとりしたのもあの頃だった。

・・・・などなど、とりとめのない郷愁に浸っていた矢先、一つの訃報が飛び込んできた。旧ミッテラン宅の前を歩いてきたばかりの私に、その訃報は大きくガツンと響いた。

同じ日の、ほとんど同時刻にタイムラインに流れ始めたもう一つの「大きな訃報」の波に呑まれ、だが最初の訃報は地元フランス以外ではおそらくほとんどニュースにならなかったのでは、と思う。国際的な知名度の点で両者が比較にならないことはいうまでもないが、それでも私にとっては、最初の訃報もまた大きな喪失。羅針盤を失った難破船のような今の世界にとっての、一つの喪失、一つの時代の終わりというふうに思われてならないのだった。

世界中で、そして私の周りの身近なところでも深い悲しみや喪失感とともに受け止められた「大きな訃報」、それは指揮者の小澤征爾さんのもの。そして最初の静かな訃報、それがこれから触れるロベール・バダンテール氏のものだ。

日本ではあまり馴染みのない名前かもしれないが、バダンテール氏、なかなかすごい人なのだ。

ベッサラビア(現在のモルドバ共和国)からのユダヤ移民の両親のもとにフランスで生まれるが、父親は第二次大戦中、収容所送りとなり、死去。長じて弁護士になったバダンテール氏が、だが最も知られるのはその「死刑廃止論者」としての横顔、フランスにおける死刑廃止を実現させた立役者としての顔だろう。

1981年、大統領になって間もないミッテラン氏の元で法務大臣を務めたバダンテール氏は、一般大衆の過半数が、まだ死刑存続を支持していた時代だったにもかかわらず、長らく自らの身を投じてきた死刑廃止運動をとうとう法制化に持ち込んだ。もちろんこの点で志を同じくするミッテラン大統領の後ろ盾もあってのこと。死刑廃止を訴える彼の力強い国会演説(1981年)は、フランス近代政治史上、シモーヌ・ヴェイユ保健大臣の中絶合法化を訴える弁論(1974年)と並び称せられるレジェンドとなっているともいえるだろう。

こうして他の西欧州諸国に一歩遅れる形ではあったが、やっとフランスも死刑廃止が法制化された。いかなる理由であれ、人が人の生命を奪うことをよしとしなかった氏は、この法制化に先立ち、弁護士として多くの容疑者を死刑判決から救ったが、中には敗訴し、結果的に被告を死刑に至らしめたケースもあり、個人的に体験したホロコーストの蛮行から受けた痛みと相まって、それが長年にわたって氏を死刑廃止運動に駆り立てた強い動機となったと言われている。

氏はまた同性愛者への差別的な法律の撤廃(1982年)に尽力したことでも知られる。

・・・と略歴的な話はこのくらいにしておいて。

そのバダンテール氏に私は、割と最近、スクリーン越しに久々に再会した。昨年10月、独仏共同出資のテレビ局ARTEの作った力作ドキュメンタリー四部作「L'histoire de l'antisémitisme(反ユダヤ主義の歴史)」に、たくさんの解説者、証言者の一人として氏が登場していたからだ。

番組制作の時点で、90歳はゆうに超えていらっしゃったものの、矍鑠(かくしゃく)とした面持ちの氏が語る言葉の一つ一つが非常に重いもので、深く心を動かされた。ああお元気だったのだと、その再会を喜びつつ、複雑な思いもあった。番組制作はハマスがイスラエルに攻撃をしかけた10月7日の前だったわけだが、その放映のタイミングが10月7日の出来事のすぐ後だったことで、番組は思いもかけぬ(そして全く願っていなかった)インパクトをもたらす結果となってしまったからだ。今、かの地で起きていることについて、人が人の命を奪っている現実について、氏は何を思い、何を考えていただろうか。それを聞くことも、もう叶わない。

番組の第二話で取材に答えるバダンテール氏。こちらはたぶん、ご自宅。

ちなみに前から思っていたけれど、このantisémitismeという言葉(英語だとantisemitism、独語ならAntisemitismus→そこから推察できるように、欧州言語圏では誰もが共通に「あああのことだ」となんとなく理解できる概念)、「反ユダヤ主義」と翻訳された途端に、何かが抜け落ちるというか、滑り落ちるというか、ことの一部分しか伝達され得ないもどかしさがあるのは私だけだろうか。番組内ではこの言葉の語源(造語だったわけですが)への言及もあり、ああなるほど、とその箇所もまた、ひどく得心がいったものだった。

フランス語の他に英語とドイツ語で視聴できるようなので、そのいずれかを解する方、視聴されることをおすすめ(と思ったら、フリーで視聴できるのは2月11日まで、と書いてありました、残念!)。



パワーカップル


そしてもう一つ。彼は哲学者、思想家のエリザベート・バダンテール氏の夫、といえばぴんと来る方もいらっしゃるはず。その名著「母性という神話」には、私もずいぶんと触発され、母乳育児の文化的、社会的、歴史的コンテクストを探った拙著「世界一ぜいたくな子育て」執筆中には、勢い余ってバダンテールさんご本人にお手紙を差し上げてしまったほど(しかし、ソーシャルメディアのないあの時代、どうやって住所とか調べたのだろうか?)。バダンテールさんからは、その後、簡潔ながらご丁寧にお返事をいただき、とても嬉しかったことを今でもよく覚えている。

サルトル&ボーヴォワールとか、クシュナール&オークランに連なる系譜のフランス的パワーカップルだ、と長年思っていたのだが、今回の訃報に接し、ちょっとウィキペディアなどでおさらいしたところ、ロベール・バダンテールさんはエリザベートと結婚する前は、「シェルブールの雨傘」でドヌーヴと共演した女優のアンヌ・ヴェルノンと結婚していたことを知った。うーむ、そうだったのかと、これはこれで唸ったことであった。

それはまあどうでもいいとして、さて、ロベール・バダンテール氏の逝去の報が流れるやいなや、フランス国内ではメディアに追悼記事が溢れ、マクロン大統領をはじめ、オランド元大統領、ファビウス憲法評議会会長からルペン氏に至るまで、哀悼の辞の嵐だった。

パンテオン入りするに十分な功績であり、人格だったと私は思う(その判断はマクロン大統領によってなされるが、今のところ、不明)。死刑廃止論者の末席に名を連ねる者として、またミッテラン時代のフランスにある意味「育てられた」人間の一人として、そしてエリザベート・バダンテール氏の一ファンとして、私からも心から哀悼の意を捧げたい。

(それにしても日本を含むアジア諸国で死刑廃止論が一向に盛り上がらないのはどういうことだろうか、というのは私の長年の疑問の一つ。)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?