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『整体入門』、そして坐禅4年の今。

『整体入門』
昭和初期に整体法を創始した野口晴哉氏の著書。
以前から著者の別の本『風邪の効用』というタイトルが面白いと気になっていたのだがこちらの方が幅広いことを書いているようなので選んだ。

一読してこの方の探求の深さに圧倒された。
様々な症状と原因に対処する考え方が西洋医学とは全く違い、しかも一般的な東洋医学とも異なるようだ。
少し大きめの病気を経験すると判るかと思うが、これだけ医学を含めて科学の発展した現代においても結局のところ残念ながらその多くは間近な原因を取り除くか症状を緩和する対症療法に留まっている。
もちろんそれらも大きなことであり、その恩恵に助けられ感謝している身として批判するつもりはないが、例えば頭痛ならアスピリンとかで対処したとしてもそれでは済まない、もっと根源的な何かがあると感じてきているように思う。
あの時代にそうしたことを含め過信的に西洋的な知見に依らず、自身と他者について冷静かつ科学的に観察し見いだした数多くのノウハウ。
それが多くの方を救い今も脈々と続いていることに驚かされるし、これを読むとその何かが伝わってくる。
いつかちゃんと学んでみたいとも思うが一人でするには中々難しいし、ひとまず関心のあることから参考にしていこうと思っている。

そして再読していたらこんな言葉があった。
教え子からの整体法に集中しようとしても雑念が次々湧いて無心になれないという問いに対し「心が澄んできているから雑念が湧いているのが判るし、消えていくのが判る。雑念が心から離れず次の雑念を生み出すようだといけない」と。

これは坐禅にも通ずる、どころかそのものではと思った。
「次の雑念」というのは、浮かんでくる雑念に起因して感情を増幅したり考え込んだりすることで新たな雑念を生むことを諌めているのだろうと思う。
普段相変わらずあれこれ思いがちで、坐っていても雑念・妄想ばかりな自分にとってはうれしく、かつ肝に銘じなければと思えた。
もちろん坐禅でも同じように教えてくれている指導者や本もあるが、それを異なる分野から支持してくれているような思いがした。

坐っていると本当にあれこれ感情や思考の断片が浮かんでくる(素人だし経験と修行が浅いのを置いておいて…)。
日々の仕事や生活でのあれこれ、それらにまぎれスルーしてきたことや気づいていなかったこと、何より未熟なくせに他者に対してひっかかったことなどが、坐ることで引き立ってくる。
そしてそれらに反応した感覚や意識が思い浮かび再現することで増幅されるかのようにそれこそ際限なく…

ある時気づいたというかふと思ったのだが、これは何気におそらく普段でもそうで、気づいていないだけで日頃も周囲の環境に影響されたり(つまりは自分も他者に何かしらの影響をということでもある)、多くの断片や考えが浮かんでいるのだなと思う。
そしてそのほとんどは自分で考えようとしたことではなく、勝手に思い浮かんだ断片や周りの環境などに気持ちが向いて気になったり考えていることが多く…
つまり自分で意図して考えようとしたこと以外の自分の中に生じたこれらに考えさせられている!?!

坐っていて、いつの間にかそのどれかに引きずられ(時には自分からそのどれかをピックアップして)、時には結構長くそれを考え込んでいたりしていて…、それに気がついて呼吸や姿勢に意識を戻すの繰り返し。
ついこんなじゃいけないと思ってしまうが、とにかくそれをだめだとは思わないようにし、浮かんだ感覚や思考もジャッジしないように心がける。
もとい、心がけてはいる。
まったく落ち着きがなく未熟さを実感する。
とにかくは感情や思考に入り込んでいたと気づくたびに意識を戻し、呼吸と姿勢、外の音などに意識を向けることを繰り返す。
こうした時は姿勢を調えつつの脱力を意識するようにしている。
坐禅または瞑想における“弛緩”について。|nakagawa
繰り返しでも仕方ない。
内外で何か起きれば自動的にそれらは生じるものだし、そういう自分で、そういう生き物なのだから。
それでも無心とはいかなくとももう少し落ち着いておおらかになれたらいいのにとは常々思う…

この本を読んだおかげか数日後、そもそも縁起によって成り立つこの空の世界で自分自身も刻々移ろっているのなら全くの無心などない(のかもしれない)と思った。
仏教で言う六根(眼耳鼻舌身意)という感受機能。
視覚や聴覚など、いわゆる五感に意を加えたものでそれが対象を捉えることで認識や感情、意識が生じると説いている(意さえも感覚器官としているところが仏教のドライというか冷静でユニークなところだと思う)。
ならば勝手な考えだが、これらのどれかが何かを感受して意識が生まれるのならその1つでしかない意とそこから生じる意識だけを重要視しすぎる必要はないのかもしれない。
結局は全てが意識になっていくようだから1/6とはならないのかもしれないのだが(汗)

毎晩坐るようになって4年。
時々さぼることはあってもほぼ毎日(時間は短いかもしれないがだいたい20分から30分ほど)。
アプリは雲堂(undo)が必要最小限のシンプルさでおすすめ。
今はCOVID_19のせいで開かれていないがお寺で開かれている月1回の坐禅会も通っている。
この辺りのことはこちら。
坐禅との出会いのことなど。|nakagawa
それでもいまだに結局はこの繰り返しでいて…
何だかもうずっとこの繰り返しのままなのかもしれないとも感じている。

それでも坐っていると時々ふと静かな感じでいることがある。
その時はいつものようにあれこれ雑念は浮かんでいても同時にわりと穏やかに静まっていて凪いでいるような感じ。
うまく言えないが、「あぁ今もあれこれ浮かんではいるけど何となくどこか根っこの何かとトータルでは静まって落ち着いている」かなぁと。
この感覚は長続きしないし、それが何かも判らない。
そしてそれを求めてそうなろうとしてもその状態は来ない…
もちろんそれはただ単に落ち着いているだけのこととは判っている。
それでも道元禅師の言われる“安楽の法門”に近づいているのならいいなとは感じていたりする。

とはいえやはりいまだに感情に引きずられることが多い。
特に怒りはどうしようもなくている。
それを感じさせる原因(他者など)があるのは確かだが、どうやら自分には誰か(時には自分)を否定したりする他罰的・攻撃的なところ(人前では出さないが)とそれを増幅しがちな傾向があるようで、それが何気にきつく嫌気さえさすことがある。
本当は原因よりもそれを受け止めた自分の問題なのだ。
と感じてはいる。
たぶん弱さや承認欲求(他にもありそうだ…)の裏返しなんだろう。
坐禅のことをよく、“己事究明”自分を知ることだと言われるが、今のところ自分のマイナス面ばかりが目につくことが多い気がする…

それでも坐禅に出逢えてよかったと思っている。
もちろんいまだにそれが坐禅になっているのか、マインドフルネス瞑想なのか、ただただあれこれ思いながら坐っているだけなのか判らないでいるのだが…

“何とかなる(かもしれない)”
以前の自分なら勢いや気合いでそうやってきていた。
もちろん失敗もあったがそれを含め通してきて、それなりに自信もあったが病気で雲散した。
病気を経て、再発の可能性が多くあり、そこまでとはいかなくとも時々ダウナーとなる今の自分にはもうそんな根拠ない自信はない。
そもそも坐禅は結果や効能を求めてするものではない、何か効果を感じたとしてもそれは副次的なものだと云われる。
とはいえ、自分にはどうしても求める思いがある。
復職したとは言え未だに通院し薬を飲んでいるし、病気の影響は今もあり実際時々無条件に体調を崩す。
もちろん全てを坐ることでどうにかしようとは思っていない。
それでもとにかく病気以降あれこれ経験し、すがるようにいろいろしてきた中で今も続けている主なことが坐禅ではあるし、結局のところ、正しいと思えることは“今、そしてここ”以外にないということだけはずいぶん実感している(しょっちゅう脱線しているが)。
日々の生活の中で病気の頃に比べればあれこれをさほど気に留めたり考え込んだりしていずに、フラットで客観視できてもいる時間が増えたとは感じている。
それにおそらくだが精神的な状態が少しは?向上したかとも感じる。
そもそも未だに未熟なので恥ずかしいし、病気以前のことはもうはっきりとは思い出せないが、これらは坐ることで以前よりも持てるようになったことだと思う。

これからもこの文章のようにあれこれ前後したり寄り道しながらなのかもしれない。
とにかくは今夜も坐ろう。

#坐禅
#マインドフルネス
#瞑想
#迷走
#日日是好日
#一切唯心造
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