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坐禅または瞑想における“弛緩”について。

坐禅と瞑想は本来異なるともいうが自分には未だそれを分けられないでいる。
だが、そのどちらにおいても様々メソッド的なものがある中で共通する大事なこととして、身体を緩め、さらに、できれば心(と言われるもの)を緩めて静めることは、とても大事な要素であることは間違いない(実は普段のことでもそうだが)と感じている。
おそらくだが多くの先達が静かに落ち着ける場所で坐ることを勧めていることや姿勢に言及していることの要点の1つかとも思う。

それらの第1歩となる弛緩(そしてできれば本当の意味でくつろぐ)ための方法について、素人なりに学び体感して思うところを書いてみている。
個人的にはまだ全然できていないことなのでどうかとも思うし恥ずかしく思うが、それが逆に参考になることもあるかもしれないと。
注:坐禅も瞑想も坐る以外のものもあるがまとめて“坐る”と表記しています。

緩めることの必要性
まずは呼吸のしやすさ。
そして身体を安定させるため。

それは身体の細かな感覚や周囲の環境などを感じやすくした上で、集中または拡散した意識を保つため。
だからここでの弛緩はその状態を保つための最小限の力は必要で全くのダラりという意味ではない。

判っていても難しい
普段でも、そして休養やリフレッシュなど気を抜いた時間でもそうだが、何気に気づくとどこかに不必要な力が入っている。
肩や首の凝りなどはまさにこれ。
入れようとして入れている訳ではないのに。

なぜなら人は力を入れて動く構造になっているから。
なぜならそれは入れようとしたものじゃなくて心のどこかから来ているものだから。

日常でもONばかりで疲労やストレスを貯めこむのは良くないから時には意識的にOFF=弛緩する必要があるし、坐る時はなおのこと。

《その1:いきなり脱力が難しいならその構造を逆手にとってみるアプローチ》
あえて肩をすくめるとか手をぎゅ~っと握るなど、どこかに力を入れてからすっと脱力。
そのじんわりした感覚が弛緩。

[入力=プラス、 フラット=ゼロ、 脱力=マイナスだとして、フラットからでは何気に気づかない力が入っていたりして抜けないのでいっぺんプラスにしてからフラットに戻るベクトルがマイナスに向かうイメージ]

これは漸進的筋弛緩法としてメソッド化されてもいて医療やスポーツなどの分野で効果が認められてきている。
余談だがこのメソッドと近いものがいにしえからあり、古来からのヨガや瞑想、江戸時代に白隠禅師が伝えた「軟酥の法」、現代でのマインドフルネスでのボディスキャンなども同様なものかと感じる。
このメソッドなどにはちゃんと入力・脱力する部位の順序なども示されているが、これにこだわる必要はない(流れがうまくまとまっていてやりやすいので興味ある方は調べてみてください)ので思うところ・凝っているなどと感じるところに意識を向け入力し脱力し、その感覚を味わう。
個人的にはそこに吐く息または氣を向けるイメージでしてみている。

体が緩まれば心も緩まってくるのが道理。
とはいえ、自分はどうしても鈍感なのか我が強いのかそこまで緩んだ気がしないが、少しは緩まり繊細になった気がするし、実感できていなくてもきっと身体は緩んでいると思って大事にしている。
イメージを脱力=マイナスと書いたが、感覚的にはゼロでフラットな自分になれていればいいのかなと思う。

《その2:丁寧な動作》
これは今をしっかり味わい、普段でも時々ある周囲の物音とかふとした瞬間に素に戻ることがあるあの感覚を感じやすくするため。

例えば、お茶を飲む時にゆっくりいれ、味わって飲み、カップをテーブルに戻す動作。
いつものような自動運転でなく、動作を丁寧にして意識をその動作や飲むことで生じる感覚に向ける(できるだけで、その行程の中の短時間でもいいので)。
逆につい力んでしまう部分に気が向いてしまうかもしれないが、それは丁寧にしようとしているからこそなので、気にせず、それでも必要最小限の力と動作でを少し意識してみる。
その時の手足の感覚、お茶で言うなら微かな香り、味、喉を通って収まっていく感覚に少しでもほっとまたはぼおっとしたとかや静まった感覚があればそれが弛緩。
いつも意識する必要はなく、時に素に戻る感じでやってみる。
坐る時はその始めから終わりまでの動作などに。

《その3:姿勢を保つ(できるだけ最小限な力で)》
弛緩と真逆に感じるかもしれないが、実はとても大切。
安定した姿勢があるからこそ弛めることができる。

よく言われる背筋を伸ばすとか腰を入れる・顎を引くという表現はそれぞれ正しいのだが何気に語弊があり、そうしようとすると(言われると)、どうしてもつい“その状態:部位の姿勢”を目指してして力(身体または意識の)が入ってしまったりしがちでもある。
あくまでも必要で大事なのは呼吸のしやすさとそれを支える身体の安定。

坐り方は椅子でも床でも何でもいいので、心持ちとしては坐った場所にお尻(坐骨)を落ち着ける(クッションか何かにお尻の後ろ側だけ置くと楽)。
いっぺん上体を丸めるのではなく腰から前へ倒し、腰(というか骨盤)をそのままに上背を起こしてみるといいかもしれない。同じように後ろや左右へも。
そうして坐面(心持ち少しまえかがみに感じる程度だといいかも)が安定すると、その上の背筋が自然としゃんとした感じが生まれる感じがするので、そこに頭が乗っかっているイメージ。
少しだけ顎を引き首の後ろを軽く上に伸ばす感じにすると、しゃんとした体感とともに呼吸がとても自然に、楽に感じるかと思う。

やってみると難しく、この姿勢のためにあれこれ力が入っていると感じるかもしれない。
これは自分自身もそうだが、これまでの生活で身についた癖など(何気に肩凝りや腰痛の原因でもある)に依るところが大きいのかもと思う。

無理をすると前述のように余計な力みになってしまうので、いきなりこれを目指すというよりは意識の片隅に置いておき、自然な呼吸のしやすさを目安にして姿勢を調整していく感じで。
その過程で少しずつ姿勢が改善され楽になっていくと思う。
自分はおかげで、全てではないが腰痛や頭痛・肩凝りがかなり良くなった。

とにかく目指すのは自然な呼吸のしやすさと身体の安定。
その上でそれ以外の力は全く必要ないので、姿勢を保つため以外の力を抜いていくことを目指し(その1などもしながら)、タイマーをセットした時間を坐ってみる。

《おわりに》
ここまで自分も全くできてないのにあれこれ書いてしまいました。
お読みいただきありがとうございます。
ご感想などいただければありがたいです。

ここまで文字にしてみると長いが実際には同時にしているのでそれほどでもない。
最後に心持ちのことを少しだけ、ここまで緩めてきた身体と必要な姿勢を保ちながら坐る中で、ここまでのところはある程度はできているように思う自分が、心持ちについては全く自信がなくまだまだなので先達の教えを基に、自分なりに解釈し心がけていることを。

ジャッジしない
坐っていると、あれこれや気がかりなことなどが思い浮び、それに引きずられた感情が湧き、いつの間にか考え込んでいたりする。
よく、それを受け流すとか、(それすらも)ただ見る(観ずる)とか、思いを手放すと言うがなかなかできるものではない。
どうしたって思い浮かぶあれこれが気になるし、いつの間にか引きずられている…
それを回避または解決するためにラベリング(これは妄想だとか名づけスルーする)や川の流れのように流すなど様々な手法があるから、しっくりくるものを選べばいいと思う。
自分は今のところどれも微妙でこれといったものがない(^^;)
たが、結局のところその何かが思い浮かぶのは脳の働きの1つだし、寝ているのでないからそれは当然なこと。
だから気にしても仕方ない。

とにかく思い浮かぶあれこれを良し悪しとかジャッジせず、止めようとも思わず、意識が逸れてそれに向いたことを悪びれたりせず、まるっと受けとめて、またそっと意識を戻し、
瞑想の対象が呼吸なら呼吸へ、
身体の感覚ならそれへ、
全ての環境へならそれへ、
マントラや慈悲の言葉ならそれへ、
向け続ける(ようにする)。

それでも当然のように次から次へあれこれ浮かんでくるがそれに引きずられ考え込んだりしていることに気づいたら、またそっと戻る。
それを何度も繰り返す。

結局のところ、そんな意識のエクササイズみたいなものと思えばいいのかもしれない。
その先に何かあるとか思わず・求めず、あれこれ思い浮かぶ中にいても、静まった自分もいたならそれがきっと弛緩なのかなと。
↑自分は今この辺りかと(^^;)

こうしてる間にカップのコーヒーを飲んだのだけど、
その動作や味や温度を感じるのはそれだけのことだけどよく見たらすごいことだなと感じた。
丁寧に動作してみると、なんて多くの動きと感触があることかと。
確かにそれは普段“自分”が“自動的に”していて気に留めることなどない些細なことなのだけれど、なんだかとてもいとおしくさえ感じる。
時には丁寧を意識しすぎて動きが妙になったり息を詰めていたりするし、こんな感覚や感動は長続きしないのだけれど(^^;)

#弛緩
#瞑想
#坐禅
#一切唯心造
#放てば手に満てり

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