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自分の時代を作った 前編

こんにちは、アルゴンでございます。

いかがお過ごしでしょうか?

多分、需要ないです。自分の思い出や、嫌なトラウマも向き合おうとするために、脳の中で再生して、その中で描いたものを文章にした。

私が作ってみたかった。親が当時の事をよく言っていたので、思い出しながら書く。

書こうと思った理由は、自分と向き合う為

ノート見た時に、こういう事なんだなと振り返るように、主は自分。

前編は鬱等の精神疾患ではなく、発達障害での私と母との辛い闘いになる。


2002年   私が生まれる。

親から言うには、大人しく、手のかからない子だったという。

ちゃんと言う事聞くし、そこまで夜泣きも無かったという。

2003年頃  母がおかしいと気づく。

具体的には、散歩のとき、別の道行くと、嫌がって、手こずると。

とにかく、こだわりが強く、母はいとこの子供も見ていたため、明らかに普通の子は違うと察知した。
 そこから、母と私の試練が始まった・・・。

2004年頃 妹が生まれる。 私が2歳の頃。

 妹はグレーゾーン。いわゆる、発達障害ではなく、普通でもない感じ。

 発達障害の部分もあるけど、影響するほどの事ではない。

2005年頃 発達障害専門の病院で私は自閉症と診断が下された。

    3つの分野があり、社会性等。
    例えば、コミュニケーション能力が無いとかそういった感じ
    それが全て当てはまっていたという。

    3歳、普通なら、言葉喋れるのですが、私はいまだに喋れず。

    そこで、言語教室を通う事に。

    沢山の同じ発達障害の母親と出会ってきたという。

2006年頃 保育園に。 発達専門の方でもあったため、基本楽しかった。

  ただ、母は大変だったという・・・。当時フルで妹も保育園に入ったころは、フルで働き、その後に迎えに行き、市民病院で言語系を習い、そこで妹にジュース買ってあげたりと、とにかく大変だったらしい・・。

2009年 小学校入学。小1の頃、学校に行きたくなかった。

   ありもしない黒歴史があるし、苦手な友達も当時いたし、何より皆の目が厳しかった。保育園とは違う、そう感じた。
    入学前、教頭先生から、普通学級ではなく、支援学級に行った方がいいと言われたそう。
    でも、親はアルゴンに色んな経験を学ばせて、いずれ、普通でも働けるように、普通に馴染めるように、お願いしたそう。
    それを知ったのは、小5だった。

母 先生からね、アルゴン、発達障害なんだけど
 ちなみに、そこで知る。

母 最近のアルゴン、頑張っているって。これなら、中学普通でも
 いけそうって。

   頑張っているという言葉、親の安心したかのような笑み、その雰囲気に涙が出た。泣いた。頑張っているという言葉の響きが心に伝わった。
   そして、母も私の頑張りを認めてくれているんだと思うと嬉しかったから。

   当時、母はピリピリしていた。そう、私が大人になってからちゃんと上手く行けるのか、そういった不安、そして、支援も詳しくなく、自分がこの子をちゃんとしなきゃという思いが強かったと思う。

母 何で分からないの!?何でこんなことが分からないの!?
 気持ち悪い!宇宙人よ!

   母は自分では、毒親と最近はよく言う。

母 めそめそして気持ち悪い!もういや!

   たまに、泣きながら怒っている姿もあり、無関心だった私も涙が出た。

   お母さん怒らせないようにしなきゃという思いもあったと思うし、お母さん怖いという思いもあった。

   言葉が上手く喋れない、会話のキャッチボール出来ない私にとって、屈辱的だった。

   悪友に発達障害って言っちゃったし・・。馬鹿だと自分で言いたい。
   あの頃はいい意味でも悪い意味でも正直すぎた。
   嘘をつくのも下手すぎて直ぐにばれていた。

   悪友とは家が近く、よく遊んでいた。
   毎日のように遊んでいた。あの頃は苦じゃなかった。
   嫌だなと感じたのは、高学年になってから。

   悪口言うし、私のこと馬鹿にしている感じで嫌だなと思ったから。
   遊ばなくなったら、仲間外れにされて、孤独感も感じた。

   小学校低学年、私がスカート履いてきたら、何でスカート履くの?
と言われたり、当時、まだプリキュア好きだった為、プリキュアのハンカチ持っていたんです。それを見て、くすくす笑って、他の子と嘲笑って、泣きながら帰って親に伝えた。

親 そんなもん、無視しなさい!その位で泣くじゃないよ!!

   その頃は愛されているという実感が無かった。

   でも、旅行はよく連れて行ってくれた。

   サファリパークや、遊園地、遠くまでよく行っていた。

   楽しかった、妹と一緒に遊んだり。

   ビデオには、私が誕生日の頃、祝ってくれたり、まだ、髪がくくれない時、お母さんがくくってくれたり・・。
   沢山の思い出をビデオに刻んでくれた・・。


   今思うと、あの頃の母は自分でも言っていたんですが、必死だったという。

 
   母にとって、私を普通にさせてあげたかった。

   誰も頼る人がいない孤独感、立派にさせてあげたい、大人になったら、この子はどうすればいいの?普通にしなきゃ。
   普通でも働けるように・・。

 
   でも、それが歯車によって悪い方向に動き出したのは、中学になってから。そこから精神疾患とも出会うことになる。

   この頃を思い出すと、よく自分耐えたなと・・。

   親を悪者にはしたくない。

   綺麗ごとになるけど、自分だけは母親を守ってあげたい。父
   父は、育児は無関心だったと言っていた(;^_^A

   母がよく夜遅くまで調べていた

   どうすれば良いのかと。

   でも、思うのは、私も発達障害の子供が出来たら、そうしていたんじゃないかって。

   だって、こだわりが強かったり、色んな事で手こずらせる。

   母が言うには、手を出している母親もいたという。

   その位、大変なんだろうなと感じた。

   よく通信の高校に行っていた時に、先生のお子さんを優しくしましょうの言葉だった。

それに対し、母は怒りを込み上げていたという。


母 綺麗事をよく言えるよね・・。あなた達は当事者じゃないし、
 気持ちがわからないのに、優しくしましょうってふざけないで
 こっちは大変なんだよ。あなた達はお金貰っているからいいかもしれない 
 けど。どれだけ、大変な思いをこっちはしてきたか、子供もそうだけど
 簡単に言わないで欲しい。


 この言葉は染みた。高校の頃ですけどね、ちょっと時代が離れましたが。発達障害に置いて、繋がるかなと思って。

 その位、育てるのがいかに大変で、責任を伴うのか・・。

 母は今は、色んな支援がある事に気づき、ネットの発達の事もあり、穏やかになった。

今よく言うのが

母 後悔しないで生きて欲しい、笑って楽しく生きて欲しい。笑ったもん勝ちだから。安定して働いて、自立出来たら、もう安心して死ねるよ・・。

 そんな言葉を送ってくれるようになった。

 身の丈にあった事、得意分野を生かして活躍している方も勿論いる。でも、その方はほんの一握り。

 発達障害の8割は精神疾患もかかると言われている。

 その位、生きづらい世の中という。息を吸うのも辛いという位。

 まだ、その頃は何も知らずに、能天気に過ごしていたから、かからなかった。その心に感謝している。

 まとめ


 以上、前編でした。

 長くてすみません・・。中学になると、さらに長くなると恐ろしい。もっと文章をまとめれる能力付けれるように頑張ります。中編になると思います。

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