見出し画像

国会議員の秘書24(記者さんが宿舎に)


 野中広務先生が建設政務次官になった頃から建設省の記者クラブに所属する大手新聞社の記者さんや経世会の番記者さんが、高輪宿舎の先生の部屋に少しずつではあるが、夜来られるようになった。また、自民党の国対副委員長になってからは毎夜来られるようになった。
 それまでは、記者さんというと先生が京都の府議会議員の時代から付き合いのある地元紙の東京支社の方などを夜の予定がない時に、食事に誘って京都政界の動きや地元の自治体などのことについての情報交換をされていた。また、この食事の席には、京都府や京都市の東京事務所の方にも一緒に入ってもらうことも度々あった。基本的に、野中先生は、東京では単身赴任の状態なのでひとりで食事をされることは、引退されるまで500%なかった。いろいろな方と食事を一緒にして懇談しながら人間関係を築いたり、情報交換をして政治の場に、活かしていくところを側にいて学ばせてもらった。後に、随行の秘書から単独で動ける秘書の立場になってからは、私なりにも、毎晩のように、誰かと食事(私は、お酒は飲めない)をしていろいろなことを教えてもらった。
現役秘書の時に、たまに、家に早く帰ると妻からは、「最近早いよね!どうしたの?大丈夫?人気無くなったんじゃない?」などと心配されることもあった。
 話は、横道にそれたが、また、番記者さんが宿舎に、来られるようになるまでは、竹下登先生の邸宅の奥の奥まで入れる3人の記者さんのうちのひとりの方が事務所に顔を出されて「先生いる?」っていいながら会館の事務所の奥の部屋に入り、ソファで野中先生と談笑されたりしていた。私は、その記者さんが事務所に来られると、その方の言葉は、「竹下先生の言葉」として聞いていた。
竹下先生に近い記者さんや地元紙の記者さん以外に、野中先生に直接、情報を取りに記者さんが、宿舎に来られるようになって私としても「先生にも大手マスコミの記者さんが来るようになったのか。」と少し嬉しくなった。建設省の記者クラブの方は、大手紙の経済部からの記者さんで、大変
、控えめな方だった。派閥の番記者さんが、先生の宿舎の部屋に入るとその方たちの懇談が終わるまで高輪宿舎1階のソファに座って待たれていた。番記者さんが先生の部屋から出られるのを確認してから訪ねて行かれていた。また、先生の部屋に毎日来られるようになった番記者さんは、2人おられた。今でも変わらず私とは、懇意にしてもらっており京都に行かれた時などは、先生のお墓にも度々お参りしていただいている。
当時、野中先生に、なぜ夜廻りされるようになったのかを聞くと「派閥のある幹部の先生が、野中というのは、今のところ名前は知られてないが、彼は、竹下、金丸と近く、情報も持っているし、将来的にも伸びてくる。」ということを聞かれたらしい。その頃、事務所内では、野中先生が将来どのようになるかを話ていたかというと「うちの派閥もまだまだ上の先生方も多いし、層も厚い。先生が引退するまでに2回ぐらい大臣が出来たらいいな。」というような感じの話を先輩秘書としていた。
当時は、ようやく自動車電話が普及し出した頃だった。私たちは、電話番号が入力されるポケットベルを携帯していた。そのポケットベルに先方の番号が入ると折り返しその番号に電話をするということが、一般的だった。私のポケットベルには、夜廻りに来られる記者さんが使われている自動車電話の番号が入り、折り返し連絡すると「先生宿舎に入った?」ということを聞かれ「はい。先ほど戻りました。」と答えると高輪宿舎の駐車場に停まっているハイヤーの中から出て行って宿舎の玄関に入って行かれる記者さんの後ろ姿を私は、車を掃除しながら目撃した。また、朝は、朝で先生を宿舎に迎えに行くと既に、部屋に来られていて、先生と一緒に玄関から笑いながら出て来られるようになった。私は、その記者さんの姿を見て「こんな朝早くから夜遅くまで、私たちが仕事が始まる前に来て、仕事が終わってから先生の部屋に入るって記者っていう仕事も、大変だな。いつ寝ているんやろ。私たちより勤務時間長いやないか。自分には、真似できないな。」とつくづく思った。
この頃から高輪宿舎の野中先生の部屋で夜の記者懇のようなものをするようになったきっかけであり始まりであった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?