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もしも学校にいけなくなったら

何がきっかけだったか自分でも分からないけれど、タイトルのことをここ3日ほど考えています。

もしも息子や娘が学校に行けなくなったら私はどうするか。
未来の私へ書き残しておこうと思います。


・最優先すべきは命

何よりも優先するのは子どもの命です。
言わずもがな。
これは子どもの意思よりも優先します。
子ども自身が学校に行きたい、よりも行かなければいけない、行けない自分には生きる価値がないという強迫に駆られるくらいなら親の判断で休ませます。
これは社会人になっても同じです。
死ぬくらいなら会社辞めろ。

・気持ちを吐ける場所を作る

次に優先すべきは子どもの気持ちです。
つらい、悲しい、苦しい、怖い…
そんな気持ちをいつ吐いてもいい環境にします。
「いつまでも引きずらないで」
「早く忘れなさい」
なんてことは言いません。
例え5年後10年後でも、ふと思い出した瞬間に湧き上がってくる負の感情は口に出して吐いた方がいいです。

腐ったものを食べたとき、ウ◯コにして出すよりも全部吐くか胃洗浄をした方が早いです。
小腸や大腸や肛門まで頑張る必要ないです。
…私は何の話をしてるんだろう。

・同世代との交流は捨てていい

学校でしか出来ない経験の一つに、同じ年齢の友達との交流、思い出を作る機会があります。

捨てていいです。
大人になっても毎日交流のある友達なんていないです。
同窓会に行ったことがない人も結構います。
「子どもの頃学校行ってなくて友達いなかったんだよね」と言って引く人はいません。
良識のある人は「へーそうなんだ」で終わります。
学校の思い出はあったら懐かしいけどなくても困りません。

・国語だけは捨てない

国語以外の教科は全て、日本語が読み書き・理解できる前提で学ぶ教科です。
全てです。
だって教科書も参考書も全部日本語で書いてあるから。
英語の教科書ですら説明文は日本語です。

早期の英語教育が盛んですが、よほどの環境を整えない限り、第二言語は第一言語の土台なくして習得できません。
リスニング力は確かに子どものうちの習得が望ましいのですが…私の中では些末なことです。

何かを学びたいと思った時、伝えたいと思った時、全て日本語力がなければ何歳になっても学習し直せません。
他人の話(文章)が理解できない、伝えたいことを伝えられないというのは相当なストレスです。
学校に行かない代わりに、国語に関わる学習だけは手離しません。

・私が考える国語の勉強

簡単に言うと、あらゆる形態の文学と芸術に触れることです。
漫画、小説、映画、アニメ、音楽、舞台…
種類や分野は問いません。
人が作ったものをとにかく摂取する。
ニュース記事もその一つです。
事実と報道の意図が混ざった作品です。

感情を動かされる日本語(翻訳)の作品から得られるものは、目に見えなくとも必ず澱のように溜まっていきます。
なんか分からんけどこの作品好きだなぁに始まり、あのシーンよかったなとか、このセリフ好きだなとか出てきて、作品について深く考えられるようになれば、それを人に話せる語彙があれば。

どこに行っても生きていける。
何歳からでも友達はできる。
学び直せる、仕事につける。
そう思っています。


・いじめを受けたら

余談ですが、いじめが原因で学校に行けなくなった場合は「逃げる」一択です。

学校は誰の味方も出来ません。
あえて言うならば"何の問題もなく通っている大多数のその他の子ども"の味方だと思っています。
子ども同士のトラブルはあくまで中立の立場にしかなれないのが学校のサガです。

更にいじめる子はどこに行っても誰かをいじめます。
その子自身の問題を私や私の子どもが解決する義理はありません。

謝罪も受けません。
謝罪されたら許さなければいけなくなるからです。

いじめに立ち向かう必要はありません。
戦ってはいけない相手は世の中に多いのです。
倫理観、道徳観が合わない相手とは戦ってはいけません。
いじめられる方にも原因があるというならば、原因があれば人を殺してもいいというのと同じです。

勇気を出して誰かと戦うのはフィクションの中だけであり、だからフィクションは面白いのです。
万が一戦うときは、絶対に勝てる勝算と体力気力がなければいけません。
どれも無いのに戦争をした結果が75年前。


という訳で、私の机上の空論話でした。
未来の私のために残しておきます。

そうは言っても、いざその時になったら焦り心配散らかすんでしょうね。
頑張れ私。




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