メモ:今年80歳になる伯母の話


今年80歳になる伯母の話。

水戸に疎開して、防空壕を掘ったこと。そこは夏場涼しくて用がなくても涼んでいた。

親には禁止されていたが、チョコが欲しくて、銀座三越のあたりで、言葉の意味も知らずにギブミーチョコレートと言っていたこと。

終戦後、それまでの教科書が使えなくなり、新しい 教科書は文字の感じ(フォント)も中身も違っていて、これまでは兵隊さんの絵だったが、新しいものには熊さんの絵があったことを今でも覚えている。
石板にロウセキで書いたこと。
それが重くて大変だったこと。
うまくかけたときは、親に見せたくて持ち帰ったり。教室に男女同権、民主主義の貼り紙

いまの東京、大手町のあたりに疎開?避難?したときには、鉄道そばの家だったので、電気をひっぱってきて、電気ストーブ使ったので冬は寒い思いをしなくて済んだこと。

国鉄は社員は運賃がかからず、家族もその恩恵があったこと。引っ越しなんかは荷物を貨物に乗せて、家の近くで降ろしてもらったこと。

常盤小学校の美人で可愛い同級生が、安保のニュースを朗読して、それがニュース映画に使われたこと。

台湾の青年医師と結婚して、台湾に移り住んだ親戚、美千代さん、生きていればいま90歳くらい?連絡先がわからない、台湾に係累の墓があるはずだが場所がわからないこと。

伯母の父(つまり私の祖父でもある)の話。
18歳のころ、秋田出身で、兵役のため仙台へ。都会に魅力され、田舎に帰るのが嫌になり、開拓で一山あてようと北海道へ。タコ部屋で大変で逃げだして、お巡りさんに匿ってもらったりして、馬の世話の仕事ならできるので千葉の練兵場へ。一旗あげようと、休日には東京散歩。

同姓の苗字の表札をみつけ、家に入ってみたりして。仲良くなり、家の娘と縁談を持ち掛けられるが、ガラス屋になるのは嫌だったらしくトンズラ。東京で、同郷の鉄道省の人と仲良くなり、攻玉社で測量の資格など取ったりして、20歳頃、国鉄の仕事を得る。

戦争で満州にいった。
アメリカ軍の乗っていたハーレーを乗り回してみたり、日本に戻れないなら馬賊?騎馬族?になろうと思っていた。

戦況が悪くなり、先に帰されるのは公務員ばかりだった。

引き揚げ船で日本に帰れた。
戦争の3年分の恩給があった。

話の時系列が不明だが、見合いの話。
祖父(伯母の父)は大柄で無口だった。
祖母は、大酒飲みかと心配したが、見合いの初デートは浅草のおしるこやさん。
祖父は酒が飲めず、甘いものが好きだった。見合い後すぐ、年明けに結婚し、東京の中野、大和町で伯母は生まれた。

級長には、男子しかなれなかったが、終戦後は女子もなれたこと。

美智子さまが大卒で結婚して、女性の進学や就職が社会的に開かれたこと。

昔は、女子の就職には、容姿端麗、親元通勤が必須だったこと。

末っ子の妹(現在69歳)が大学進学するときには、祖母は嫁の貰い手を心配していたこと。

あーー、
すげえ面白いな????
ファミリーヒストリー。
もっとちゃんと、時系列や、史実と照らし合わせて、年表や家系図、関連図表欲しい。

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