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距離感

曼殊沙華を撮りに行った日はずっと、目の奥に朱の残像が滲んでいるような気がする。
奔放に反り返る深い朱色の花と向き合うと、あまりにも多くの表情が見えてきて、秋晴れの空や風になびく豊かな穂波などまったく目に入らなくなり、ひたすら曼殊沙華ばかりを追ってしまう。

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彼岸花、死人花しびとばな、幽霊花、捨子花すてごばな狐花きつねばな……曼殊沙華の別名はおだやかではないものが多い。毒を宿していることもあり、どうしてもダークな雰囲気がつきまとう花だ。
光量を絞って撮ると陰影が深くなり、昏く底光りするような朱を放つのも、曼殊沙華の魅力のひとつ。

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でも、澄んだ秋の陽の下、きゃらきゃらと群れている曼殊沙華は無邪気で明るく、楽し気におしゃべりをしているよう。長い蘂が重なり合い、なびきながらつやつやと光る。
そんな姿を見ていると、ダークなイメージでこの花を括ることがまったく無意味だと思えてくる。
曼殊沙華に限らず、「名前」というものは大きな枷となることがあるのだな、と改めて感じてしまう。

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水面にも曼殊沙華が映る。
かすかな流れに容易く崩れては、また立ち直る。その繰り返し。
果てなく揺らぎ続ける世界に身を置く、というのは、どんな気持ちなんだろう。
空と花の歪みの移ろいを長い間見つめてしまった。

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一日を終え、カメラを収めてからも、まぶたの内側で曼殊沙華の朱がゆるゆると開きはじめる。
咲ききったなら、みるみるうちに立ち枯れてゆく曼殊沙華。
「今年はあとどれだけ、撮りに行くことができるのかな」
ざんばら髪の色褪せた花の姿を思えば、どこからともなく焦りに似た気持ちが湧き上がる。
「明日も行っておかなければ。明後日はどうかな。まだ花は大丈夫かな」
ふと……のしかかるように感じる朱色の呪縛。

今年はほんの少し、曼殊沙華との距離感を見誤ったのかもしれない。


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