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トルコのオヤジが俺のケバブを削いできやがるんだ

「人が大人になるということは、それだけ多くの選択をしてきたということだ。何かを選ぶということは、その分違う何かを失うということで、大人になって何かを選んだ喜びは、ここまでやったという思いと、ここまでしかやれなかったという思いを、同時に思い知ることでもある。だからこそ人は、自分の選んだ小さな世界を守り続けるしかない。選択が間違っていたと認めてしまったら、何も残らないから」

むかし好きだったドラマでキョンキョン(小泉今日子さん)が言ったセリフだ。

当時の僕はショックを受けた。大人になることは自由になることだと思っていたからだ。夜更かししても怒られないし、よう分からん野菜炊いたやつみたいなのとかも食べなくていい。そんな自由が約束されることなのだと思っていた。

でも大人はそう自由ではないらしい。大人になるということは、自分の可能性をケバブみたいに少しずつナイフで削ぎ落としていくことなんだと、当時は理解した。残酷な話だ。そんなことなら大人になんかなりたくないとすら思った。

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話は変わって先日。南海キャンディーズの山里さんとオードリーの若林さんのユニット「たりないふたり」のオンライン解散ライブがあった。もともとオードリーのラジオを10年聴いていることもあり、たりないふたりのことは知っていたが、ちゃんと見たことはなかった。解散ライブをやると聞いて急いでHuluに加入し、解散ライブより前の配信を一気に見た。

社交性/社会性が "たりない" 2人がコンプレックスを生かしたテーマで漫才をする、という趣旨なのだが、面白くてあっという間に見終わってしまった。苦手な飲み会をどう切り抜けるのか、などなど共感が止まらない。僕も "たりない" 人間だったらしい。

なぜもっと早く見なかったのか。そうすればウルトラくだらないウェイウェイパーリーピーポー飲み会をスマートにブッチできていたというのに。
(たりないふたりの詳細はHuluに加入して自分の目で確かめてほしい。この記事はHuluのアフィリなどではないよ)

むろん、解散ライブのオンラインチケットもすぐに購入した。指が勝手にクレジットカード番号を入力していた。たりないふたりの最後の勇姿を見届けるのだ。

解散ライブ当日。2時間ぶっ通しの漫才だった。コンプレックスや自意識との葛藤に彼らなりの答えを出した姿は潔く、どうしようもなくかっこよかった。
(詳しくはHuluで配信開始されるのを待ってほしい。決してHuluとズブズブな関係などではないよ)

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言うまでもなく、最高のライブだった。
でもなぜだか、ほんの少し心がザワついていた。



なんだか、とてもうらやましかったのだ。

2人は、大好きな漫才で自分自身を表現していた。コンプレックスも何もかもを洗いざらいに。おじさんになっても、泣いて、笑って。

自己表現を多くの人に求められて、喜んでもらえるのは幸せなことだと思った。

それがとてもうらやましかった。




なんでこんなにうらやましいのだろう。よくよく考えてみると、テレビの中でお笑いをやっている人たちを見た時に、そう思うことが多かったことに気付いた。

きっと僕は昔からお笑いをやりたかったのだ。でも足を踏み入れる勇気がなかった。というかそもそも「お笑いを仕事にする」という発想がなかった。

今よりもっと若いときに一念発起していれば、お笑いの養成所にでも入って、今ごろ深夜のファミレスでネタを考えていたのだろうか。でもその道を選ばなかった。お笑いの選択肢を閉じて、違う選択肢を選んだ。

でも諦め切れないから、社会人になった今でもnoteを更新したり、YouTubeに動画をアップしたり、Twitterをやってみたり、お笑い的な何かしらで自分を表現しようともがいているのだと思う。

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冒頭のキョンキョンのセリフに戻る。

「人が大人になるということは、それだけ多くの選択をしてきたということだ。何かを選ぶということは、その分違う何かを失うということで、大人になって何かを選んだ喜びは、ここまでやったという思いと、ここまでしかやれなかったという思いを、同時に思い知ることでもある。だからこそ人は、自分の選んだ小さな世界を守り続けるしかない。選択が間違っていたと認めてしまったら、何も残らないから」

もう30歳手前である。それなりに多くのことを選んできて、その分それなりに多くのことを失ってきたと思う。ケバブのお肉は確実に、ガタイのいいトルコ人のオヤジによって削ぎ落とされている。どれだけ逆立ちしたってもう選ぶことのできない選択肢が、日ごとに増している。今からガッキーと結婚できる自信はない。


でも、まだできることもあるんじゃないかと思う自分もいる。


キョンキョンのセリフには続きがある。

でも、その掴んだ何かがたとえ小さくとも、確実にここにあるのならば、掴んだ自分に誇りを持とう。勇気を出して何かを選んだ過去の自分を褒めてやろう。よく頑張って生きてきた、そう言ってやろう。そして、これからを夢見よう。世界を嘆くのではなく、世界を信じるんだ。私だって、その世界の一員なんだから。

「もう30歳」である。でも「まだ30歳」かもしれない。「まだまだ若い」と言ってくれる人もいるが「もう若くないね」と言う人もいる。そういう揺らぎのある日々を生きている。
(まあでも面と向かって「若くないね」と言われるとケバブの肉塊でぶん殴ってやろうかとは思う)

もう選ぶことのできない選択肢は確かにある。でも、選べる選択肢の中で、選びたい選択肢を選んでいくのだ。その営みの連続が、自分をつくっていくのだと思う。

どれだけ無様でも、自分を表現することは続けていきたい。僕の選びたい選択肢はきっとそこにあると思う。







この記事全然おもろいこと書いてないやん。








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