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北へ向かう上空で、思い出した母のこと。


4日間というまとまった連休の前夜。自分の手はパソコンのキーボード上を忙しなく行き来していた。ふとオフィスの時計を見ると、夜の10時をすでに過ぎている。朝立てていた理想の1日では、すでに家に帰り風呂を済ませて、荷造りを行い、ベッドに潜り込んでいる時間だ。

やはりまとまった連休を前に、余裕を持ったスケジュールなんて絵にかいた餅だったか。

ふう〜とため息をつきながら、引継ぐべき業務を急いでメールにまとめてチーム員に送り、メールの自動返信の設定をして、会社を後にした。

帰宅したのは23時過ぎ。学生時代から使い込んでいるアッソブのバックパックに3日分の下着と靴下、Tシャツ、そしてカメラのレンズ、ポーターのショルダーバッグ、アンドワンダーのキャップ、そしてエッセイを1冊、パッキングしていく。北海道はすでに最低気温が東京の深秋と同じくらいと聞いていたため、1着だけパッカブルのアウターを畳み、バッグに押し込んだ。

結局ベッドに入れた時、スマホが表示していた時刻は午前3時30分。7時には羽田空港に到着していなければならないことを考えると、正味1時間半ほどの睡眠時間だ。体は疲れ切っているのに旅行前の興奮のせいか、なかなか寝付けない、あの独特な感覚。世界のどこにも属していないような浮遊感とともに浅めの眠りについた。


目覚めたのは5時23分。明らかに寝不足な状態で、シャワーを浴び、1日目に着る服として用意していたTシャツとパンツに着替え、そそくさと家を出て、急ぎ足で駅へ向かう。電車に乗る頃にはすでに首筋に汗が滴っていた。今年の暑さを残暑というには長すぎるほど、高い湿度と温度が尾を引いていた。正直、東京の夏にはうんざりという言葉以外かける言葉が見つからない。汗をかくのがとても嫌いなくせに、とりわけ汗っかきな自分であるから、夏は四季の中でも耐え忍ぶ時期だと捉えている。北の大地の空気に心身ともに洗われたい。そんな気持ちだった。


北海道へと向かう機内では、今回の旅行で一冊だけ持ってきていたエッセイ、松浦弥太郎さんの「場所はいつも旅先だった」を手に取って読んでいた。松浦さんの母とのエピソードを読んで不覚にも機内で涙がこぼしてしまいそうになったため、客室乗務員の方よりいただいたコーヒーを一口飲み、ふうと一息ついてまた読書を再開する。著者がニューヨークで風邪をこじらせたことを受けて、海外に慣れていない母親が突然息子のいるホテルへお餅とトースターを担いで日本から持っていった、というエピソードである。母親をホテルの外で見送る際、一筋の涙をこぼす母を見て、著者も泣いてしまう、といったシーンがある。

スケールはだいぶ違うのだが、数年前似たような感情になったことを思い出した。会社の辞令で大阪への転勤が決まり、ひとり暮らしを始めた日。その引越しの翌日に母親が、単身に必要な生活用具を担いで突然やってきたのだ。電池や軍手、懐中電灯、ドライバー、ゴミ袋など、今考えるとその時になければ困るものばかりだった。

その日の夜、母親と少し飲んだ。話した内容はあまり覚えていないのだが、家族の話や実家の猫の話でもしていたかもしれない。ふと泊まる場所を聞くと、そこはビジネスホテルではなく、カプセルホテルを少し広くしたような簡易的なホテルだった。学生時代、京都、大阪に来る際よく使っていた安いホテルである。その時、ふと自分は泣きそうになった。壁とも言えないような薄い仕切りとベッドがあるだけの小さな個室。そこで一晩を過ごす母の姿を想像して、不甲斐ない気持ちと申し訳なさと悔しさでいっぱいになった。今思うと、少し良いホテルの1泊代くらい出せればよかったのだが、当時は「今夜俺はソファで寝るから、家のベッドで寝なよ」と声をかけることもできなかった。母をカプセルホテルまで送り届けて、ひとりで新居に帰る夜、瞼がじんわり熱くなり、頬を大粒の涙が伝った。社会人2年目の春のことだった。自分が仕事だった翌日、母は最後の仕上げにと、自分が仕事をしている日中に新居をピカピカに掃除して、夕方には東京へと帰っていった。


しっとりとしたあの日の夜の感情を思い出しながらふと空を見下ろすと、すでに飛行機は高度を下げていたらしく、眼下には北の大地が広がっていた。


無事に着陸し、速度を落としていく飛行機。窓から景色を見ると、新千歳空港に広がる芝生とその先にそびえる山稜。2023年9月、日本の北には緑と青の世界が広がっていた。





つづく


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