見出し画像

はねくじら生物学

「はねくじら」

 そう。その時、僕の心を捉えたのは、はねくじらという神秘的な五文字であった。彼女は大学のカフェテリアでアイスティのグラスにミルクを注ぎながら「はねくじら?」とその五文字をまるで不吉な言葉であるかのように小声で繰り返した。僕はそれには答えずカフェのウィンドウ越しに夏の爽やかな青空に浮かぶ雲を暫く無言で眺めていた。

「はねくじらだ」
「それはつまりまた例のあれなのね?」
「そう。君の知らないところに住んでいる神秘的な動物についての話だ。はねくじらはね、空を飛ぶくじらなんだよ」

 彼女は僕が非常識人であるのと同じくらい確固たる常識人だった。よって、僕の言葉は往々にして彼女の厳しい言及に晒されることになる。そのような厳密な審査を乗り越えた先に、我々二人の新たな共通認識が出来上がるのだ。今日の議題は「はねくじらの実在について」であった。

「はねくじらは、どうして空を飛ぶ必要があるのかしら?」
「君は、雲がなぜ出来るのか知っているね?」
「海水が日光で暖められた際に生じる水蒸気が竜巻などの上昇気流を生んで、それが、……」
「そう。その時、海面を漂うプランクトンが竜巻と一緒に大量に上空に押し上げられるんだ。はねくじらはそれを食べるために空を飛んでいるんだよ」

 彼女の疑り深い目が僕の目と口に注意深く注がれた。彼女は上空の大気中に含まれるプランクトンの話の信ぴょう性について考えているのに違いない。彼女の常識はそれにいくらかのクエスチョンを投げかけていた。

「私ははねくじらと呼ばれる動物を見たことも聞いたこともないわ」
「君はボクサークラブというカニを知っているかな?」
「いいえ」
「ボクサークラブはイソギンチャクを両手のはさみに挟んで振り回すことで天敵のタコなどを威嚇するんだ。ボクサーが両手にグローブをはめているみたいに見えるからボクサークラブと名づけられた。世の中にはそういうカニもいる。そしてはねくじらもまた存在する。君が知らないだけで、それらは確かに実在する」

 彼女は今度は自分のあごの辺りを指でなぞり始めた。ボクサークラブなどというカニが本当に存在するのかどうか。僕の説明は(本当はぜんぜんそうじゃないけれど)理路整然としているように聞こえる。もしかしたらボクサークラブは本当の本当に実在するカニなのかもしれない。ならばはねくじらもまた実在しないとは限らない。今まで知らなかっただけで。彼女は自分の無知を晒すことが何より我慢できない性分だからとりあえずその問題を「保留」と書かれたかごに押し込んだようだった。

「はねくじらにははねがあるのよね」
「そうだね。はねくじらは二本のひれがはねに進化しているんだ」
「では、はねくじらはその二本のひれから一体どのようにして自重を浮かせるほどの揚力を得ているのかしら?」
「揚力を得る必要はないんだ。はねくじらの比重は空気よりも軽いのだからね。発泡スチロールが水に沈まないのと同じで、はねくじらもまた空気に沈むことはない」
「それはあり得ることなのかしら?」
「マッコウクジラが比重の変化によって水中を浮き沈みすることは知っているね? はねくじらはそれを空気中でやるんだ。原理は全く同じだよ」

 彼女は唇を「へ」の字に曲げた。すると、彼女はマッコウクジラの潜行方法を知らなかったのに違いない。彼女はとかく自分の専門外の分野においては恐ろしく寡黙になるのだ。一方の僕はいつでもどこでも他人の迷惑もかえりみず饒舌である。

「比重を空気より軽くするために彼らはとても巨大に進化したんだ。飛行船のようにね。そして必要に応じて比重を変化させて高度を上下させる」
「マッコウクジラのように」

 僕は「その通り」と言って二度大きく肯いた。彼女は一度も頷こうとしなかった。僕の言葉にはペテンが含まれている――ないしそのすべてがそうである――という態度を些かも変えようとはしなかった。

「僕を嘘つきだと思うかい?」
「今のところはね」
「五百年前のヨーロッパでは入浴は不健康なものだというのが常識だった。入浴によって拡張した毛穴から病気が入り込むと権威ある医者たちがそう信じていたせいだ。だから西洋人は生まれてから死ぬまで一度も風呂に入らないのが普通だった」

 彼女はそれを想像して非常な不快感を覚えたようだった。そのような感覚を覚えさせた僕に対してもさらに輪をかけて非常な不快感を覚えたようだった。しかし、僕は彼女のそういう視線にむしろ倒錯的な興奮を覚えすらしたのだ。

「もし、五百年前の西洋で、風呂に入るのは健康にいいんだぜ、と言ったら、僕はきちがいとして即刻処刑されてしまっていただろうな。でも、仕方がないんだ。彼らは長年かけて培った自分たちの常識こそ最も優れてかつ誤謬のないものだと堅く信じていたんだからね」
「ねえ、そのものすごおく遠回しに私をばかにするやり方は私たちの友好関係に致命的なひびを入れかねないと思うのだけれど」
「僕は歴史の話をしただけさ」

 彼女も歴史には並一通りならぬ興味を持ってはいたけれど、彼女と僕とでは歴史に対する関わり方に少々違いがあるのだった。つまり、五百年前のヨーロッパと聞いて彼女が連想するのは宗教改革者としてのマルティン・ルターだが、僕が連想するのは生まれてから一度も風呂に入ったことがない不衛生極まりない一人のおっさんなのだった。

「実際にはねくじらを見ることはできるのかしら?」
「難しい。まず、はねくじらは全身が空と同じスカイブルーなんだ。だから、ちょっと空を見ただけではまずわからない。それに、普段は餌となるプランクトンが豊富な積乱雲の周辺を飛んでいるから、飛行機で近づくこともできないんだ。積乱雲のそばでは常にあの凶悪な乱気流が吹き荒れているのだからね。ただ、夏になると、台風と一緒に日本の太平洋側に近づいてくるということは考えられなくもない」

 今が丁度その季節だった。僕がカフェの窓から空を見上げると、彼女も午後の日差しに目を細めながら青空に手をかざした。僕は空を眺めている彼女の美しい横顔を眺めた。今、彼女の脳内では、はねくじらの群れがあの青空を飛んでいるのに違いない。彼らは雲から雲へ餌となるプランクトンを求めて回遊する。二枚のはねをゆったりと上下にはためかせながら。そして、たまに親愛の情を示すかのように身をよじらせ、お互いの頬と頬をくすぐったそうにこすり合わせるのだ。

「東京の空の上にも来るのかしら」
「来ないとも限らない」
「注意深く見てみれば見えるのかしら」
「見えないとも言い切れない」
「ロマンチックだわ」

 かくして、僕らの間には「はねくじらは実在するのかもしれない、ないし、実在してもらって一向にかまわない」という新たな共通認識が出来上がったのだった。概ねそれは僕の嘘八百と、彼女の僕に対する少なからぬ好意と、そして誰しもが胸にそっと抱くあの小さな夢のかけらによって成り立つ存在だった。しかし、それら三つが存在する限りにおいて、はねくじらもまた夏の空のどこかに確かに存在し続けるのだ。

「あ、見て。ねえ、ひこうき雲……」

 夏の午後の日差しを浴びて輝くような彼女の美しい横顔を眺めながら、とにかく僕はそう思うのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?