午後九時四十三分の小さなおっさん

 デジタル時計の液晶パネルは午後九時四十三分を表示していた。中途半端な時間帯だ。寝るには少し早いが何かをするには少し遅い。僕は今夜もいつ始まるかわからない推しの配信を待ちながらシェイクスピアの『真夏の夜の夢』を読んでいた。推しはいつ配信するか予定をぜんぜん立てない気まぐれなお姫さまなのだ。

 市立図書館のシールが貼られたシェイクスピア全集のページを一枚、また一枚とめくって何気なく時計を確認すると、液晶パネルの数字は相変わらず午後九時四十三分のままだった。僕は読みさしの本の途中に栞紐を手挟み、空のマグカップに紅茶を淹れてミルクと一緒にゆっくりとかき混ぜた。紅茶の琥珀とミルクの白がエントロピーの増大によってベージュ色に変化していく。デジタル時計は午後九時四十三分を表示したまま死んだように動きを止めていた。

 僕はマグカップを座卓に置くと部屋をぐるりと見回した。部屋の片隅の小さな棚に処分し切れなかった本がまだまだたくさん残っている。オープンクローゼットにはシングルのライダースジャケットがひと夏の間中ずっと掛けっぱなしにされていた。隣のシューズラックには革靴がきちんとシューツリーの入った状態で出番を待っている。壁紙やカーテンは清潔感のある白で、間接照明が部屋全体をほのかなオレンジに染めていた。

 僕は部屋のドアが開くかどうか試しにノブを捻ってみた。が、案の定ノブは万力で固定されたようにびくともしない。僕はドアの前で腕を組んだ。ドアは「申し訳ないけれど」と僕を部屋に閉じ込める決意をあらわにしていた。僕は正面からの脱出は諦めて事の成り行きを見守ることにした。

 息遣いが聞こえる、と気づいたのはマグカップのミルクティーをちょうど半分ほど飲んだ頃合いだった。蚊の鳴くようなか細い吐息だ。僕は息を止めるとそっと耳をすませた。息遣いはデジタル時計の裏側から聞こえてくるようだ。僕はデジタル時計の裏側をさりげなく覗き込んでみた。何もいない。しばらく悩んだすえにふと思いついて電池ケースのふたをはぐってみた。

 すると、単三電池が本来あるべき場所には小さなおっさんが寝っ転がっていた。

 おっさんはランニングシャツにトランクスというおっさん丸出しの格好をしていた。頭頂部は禿げあがっているが側頭部にはまだいくらかの頭髪の塊が未練がましく残っている。腹は贅肉ででっぷりと肥えていた。やたらと血色がよく肌はつやつやと光を帯びているように見える。

 おっさんはトランクスの尻に手を突っ込んだままの姿勢で数秒ほど僕の顔を驚いたように見上げていたが、やがて、舌打ちをひとつしてむっくりとデジタル時計の電池ケースから起き上がった。言うまでもなく、おっさんの身長は単三電池とおおむね同じだった。

「なに? どしたん?」

 おっさんはデジタル時計の上にちょこんと腰かけるとランニングシャツの裾から手を突っ込んで腹をボリボリと掻いた。僕は「なにって?」と尋ね返した。おっさんはこれ見よがしに深い溜め息をついてみせた。

「おっちゃんに話したいことがあるんやろ? 言うてみ?」

 僕は気持ちを落ち着かせるためにマグカップのミルクティーを飲んだ。牛乳のほのかな甘味と紅茶から香るベルガモットが僕の意識をなんとか現実に引き戻してくれた。おっさんはデジタル時計の上で胡座を掻きながら「ふわあ」と欠伸を噛み殺した。

「その前にわしも茶をもらおうかな。ミニチュアのティーセットかなんかないか?」

 僕は「あるよ」と答えた。スタジオジブリの『借りぐらしのアリエッティ』を観たあとしばらくミニチュア家具の蒐集に凝っていた時期があったのだ。おっさんはミニチュアのティーカップに垂らした一滴の紅茶を「おっとっと」とこぼさないように受け取った。なんだか本当におっさんだな、と思った。

「で、あなたは」
「おっさんでええで」
「おっさんさんは」
「おっさん」
「おっさんはなんなの?」

 おっさんは「は?」と至極不機嫌な顔で僕と自分とを交互に見比べたあと「わからんもんか?」と弛んだ顎へ手を添えてキメ顔を作った。

「そらもうあれよ」
「あれって?」
「だからあれよ」

 おっさんは「あの、ほら、なんや」と記憶の底に手を突っ込んで必死に泥沼をかき混ぜた。物忘れしがちなお年頃なのだ。しかし、努力もむなしく最後には「ま、ええわ」と考えるのを完全に放棄して手をぱんぱんと打ち鳴らした。

「そんなことより、おっちゃんに話したいことがあるんやろ? 聞くで」
「話したいこと?」
「きみの話したいことを話したいように話せばええねん」

 僕が「なんでもいいの?」と尋ねると、おっさんは「なんでもええで」と頷き返した。

「なら、推しを推したいんだけれど」
「ほー、ええやん。推しってのは?」
「バーチャルYou Tuber、略してVtuberなんだ。Vtuberのことは知ってる?」
「当たり前やん。おっちゃんを誰やと思ってるねん。Vtuberなんか飽きるほど見とるわ」

 僕が「誰が好き?」と尋ねると、おっさんは「マリン船長やな」と即答した。

「で、きみの推しはどこのVなん? ホロライブか? にじさんじか? それとも、まさかアイドル部か?」
「いや、実を言うと僕の推しは企業勢ではないんだ」

 おっさんは「ははあ」と意外そうな顔をした。

「個人勢か。でも、個人勢なんかよく見つけたなあ。Vtuberは今およそ二万人もおるわけやん。個人勢なんか毎日デビューしとるやろ。そん中からいったいどうやって推しを見つけたわけや?」

「話せば長くなるんだ」
 と僕はミルクティーをひとくち飲んだ。
「僕は昔からマイナー志向でね。みんなが読まないような本を好んで読んでは誰とも読書の趣味が合わないと嘆くような仕方のない子供だったんだ。なぜそんな趣味嗜好を持つに至ったのかは自分でもよくわからない。きっと人と違ったことをするのが好きなんだね。

 だから、Vtuberも自然と誰も見ていないような配信者に注目するようになった。

 実を言うと、最初はニュイ・ソシエールからにじさんじを見始めたんだ。一時期はリゼアンに凄くハマってね。切り抜きをたくさん見たよ。戌亥とこにもハマった。さくゆいも一通り見たな。ぐんかんも大好きだった。郡道美玲はまったくよく見るタイプではないんだけれど、神田笑一と絡むと化けるなと思ったよ。あとは、なんといってもエビマルだね。あそこから本格的にVtuberというものに注目し始めた。エリー・コニファーにアホみたいにスパチャしまくっていた時期もある」

「委員長や葛葉はどやったんや?」

「人気のあるVにはあまり興味がないんだ」と僕は首を振った。「委員長は好きか嫌いかで言えば好きだけどね。独特のアングラ感がある。でも、僕は委員長よりも瀬戸美夜子が好きなタイプのリスナーなんだ。なぜ瀬戸美夜子なんか好きなんだろうと自分でもいささか奇妙に思うよ。僕が見始めた頃の美夜子はまだチャンネル登録者数十万人にも達してはいなかった。あ、僕は美夜子に対しては後方オタクくん面だから美夜子って呼び捨てにするけれど――」

「まあ、でも何かしら好きになるきっかけがあったわけやんな?」

「まあね」と僕は頷いた。「ある日のことだよ。平日のド深夜ににじさんじの配信スケジュールを見ていたんだ。すると、瀬戸美夜子がたまたま配信していた。当時の美夜子は結構変な時間帯に配信していたんだ。今もかな? 僕はね、配信を見始めてすぐ思ったよ。

 うわあ、人気なさそう。

 って。はっきり言ってつまらない配信だったんだ。雑談の話題は無駄にクソ重いし喋り方もぜんぜんハキハキしていないし。でも、他に配信もないから僕はずっと美夜子の配信をつけっぱなしのラジオ状態にして作業していたんだ。

 すると、美夜子が急にムチでリスナーをしばきはじめた。

 急にだよ。なんの前触れもなく当然みたいな顔で午前三時頃のド深夜に急に「リスナーしばくか」ってムチのSEを振るい始めたんだ。僕はとにかくびっくりしてしまってね。気づくとスパチャを投げていた。僕はなんというかわがままな女王様みたいなタイプの女性が大好きなんだ。でも白雪巴さんにはそれほど惹かれる部分がない」

「それから?」

「朝の五時になった。他の配信者はみんな寝てしまって美夜子だけが配信していたんだ。

 すると、美夜子が急に『安価の具材でカレーでも作るか』って言い始めてね。僕はもう心の底から突っ込んだよ。徹夜明けの朝から何しようとしてんだこいつは、って。まあ、さすがにカレーは作られなかったんだけれど。

 でね、もう朝の七時を回った頃にだよ。美夜子がまた急に『歌でも歌うか』って言い始めてね。何曲か歌っていくんだけれど、美夜子に付き合っていたリスナーは僕含め全員貫徹だったからそれはもう徹夜明けテンション大爆発で盛り上がったんだ。美夜子が『みんなありがとー!』って『Virtual to LIVE』をエンディング曲に歌い始めると僕らも『みやこー! 世界一可愛いぞー!』とコメントを連打していた。凄い一体感を感じたよ。貫徹後の朝の八時から生ライブをしてくれるライバーなんか美夜子だけだと思った。あの時の美夜子は世界で一番のアイドルだったな」

「でも、せとみやはきみの推しではないんやな?」

「しばらくは美夜子が推しだったんだ。でも、千羽黒乃さんを通して個人勢というものを知ったとき、まだ知らない推しがどこかで僕を待っている気がしてね。個人勢の世界に足を踏み入れることになった」

「ほんまにマイナー志向なやっちゃなあ」

「僕はYou Tubeのライブ配信を『Vtuber』というキーワードで探して片っ端から見て回った。でも、推しを探すのはなかなか難儀な作業でね。僕はゲーム配信にはあんまり興味がないんだ。いいなと思うVがいてもやっぱりみんな活動の中心はAPEXや原神なんかのゲームだった。だから、深夜の時間帯を狙ってまったり雑談配信をしているチャンネルを渡り歩くという生活を送っていたんだ。なかなか、これだ、というVに巡り合うことはできなかった」

「しかし、転機が訪れたわけやな」

「そうだね」と僕は首肯した。「ある日のことだ。僕がいつものように『Vtuber』でライブ配信を探していると、はっとさせられるような立ち絵が見えた。理由を考えてみたんだけれど、やっぱりデザインが印象的だった気がする。奇をてらった派手なデザインばかりのサムネイルのなかに平凡な女の子がはっきり際立って見えたんだ。こういう素朴なデザインが案外いいんだよな、と思った。で、配信にお邪魔することにした。

 すると、声がまた素敵でね。

 第一印象のよさは今でもずっと続いている。配信歴十年の大ベテランというのがきっと少なからず影響しているんだろうね。他のVtuberさんはやっぱり話し方にどこかぎこちなさがあるんだけれど、僕の推しにはそういうところはぜんぜんないから。なんの変哲もないただの雑談をずっと聞いていられるタイプってなかなかいないんだ。ずっと探し回っていたからわかるんだけれど本当に貴重なタイプなんだよ」

「マリン船長の雑談もなかなかやと思うけどなあ」

「声質や話し方の相性もあるかもしれない。前者は才能だけれど後者は努力のたまものだ。話し方が上手いというのがやっぱり僕の中では大きなウェイトを占めている気がする。他の新人Vtuberたちと違って咳払いもめったにしないしね。耳触りのよい話し方をずっと維持していられるのは素直に称賛に値するよ。よい文章とも少し似ている。読みやすい文章を何千文字も書き続けるのって凄く大変なんだ。努力と研鑽なしには成し遂げられないことだよ」

「初見の配信はどんな内容だったんや?」

「さすがに思い出せないな。でも、いつもの雑談配信だよ。僕が丸眼鏡やブーツの造形を褒めると推しが全身を見せてくれてね。僕は丸眼鏡やブーツが大好きだからとにかく『ここすき』しまくっていた気がする。で、ここからが問題なんだけれど」

「なんや?」

「推しがさ、僕のTwitterを配信でさらしあげたんだよ。いや、さらしあげたと言っても悪い意味ではなくてね。

 でも、まあ、僕はたまげたよ。

 なにせ、えっちな絵の収集にしか使っていなかったアカウントだからね。さらしあげられるとわかっていたらちゃんと別のアカウントを作ってフォローしていたんだけれど。エロ絵師でびっしりのフォロー欄を女の子に覗かれて僕は冷や汗だらだらだった。ふたなりのケンタウロスが好きなことも知られてしまうし」

「ふたなりのケンタウロス?」

「その話はまた今度にしよう」と僕は話題を逸らした。「正直、僕は必要以上にリスナーとフレンドリィな関係になる配信者はちょっとどうかと思うんだけれど、今回に限っては向こうから興味を持たれるのも悪くない気持ちがした。Vtuberに配信でTwitterをさらしあげられるなんてそれまでなかったことだからね。最後に強いインパクトが残った」

「で、すっかりファンになってしまったわけやな」

「推しは歌もいいんだ」と僕は首肯した。「上手か下手かで言えば、まあ、下手かもしれない。選曲もはっきり言えば僕の好みとはいささか異なる。でも歌声に何か独特の魅力があるんだね。特にジブリソングを歌っているときの推しはとても素敵だよ。あまりに素敵なので切り抜きも作った。一番は鼻歌で歌った『さんぽ』かな。なんというか、土と風の匂いがする。のんびりした田舎の暮らしを思い起こさせる歌声なんだ。安らぎと親しみがある。それから、誰かの真似をして歌っているのじゃなく推しが歌っているという部分がしっかりあるんだ。だから、推しの歌は僕はよく知らない選曲でも結構聴いてしまうんだね」

「そうやって聞くと非の打ち所がない女の子に思えるなあ」

「もちろん、推しには悪い部分もたくさんある」と僕は頷いた。「推しは配信の事前告知を一切しないから僕らはいつもゲリラ配信に備えなければならない。今日も僕は推しの配信があるかもしれないからとりあえず起きているんだ。ないとわかっていたらとっくに寝ている。配信の頻度も週に一度あるかないかだから安易に見逃すこともできない。このへんの胸の苦しさは詳しくは『推しを待ちながら』を読んで欲しいんだけれど……まあ、とにかく悪い部分もたくさんある推しなんだ。あれをやるこれをやると言ってなんだかんだやらないことも多い。僕なんかなにかやるときはだいたいその日のうちに始めるから見ていると焦れったくなる」

「ま、人生のペースは人それぞれだわな」

「でも、あばたもえくぼでね。なんだか今じゃ悪い部分もさして気にならなくなってきたんだ。漢字が読めないのもまあひとつのチャームポイントかなという気がするし。信じられるかい? 僕の推しは『悪寒』が読めないんだぜ。いったい普段どんな生活をしていれば『悪寒』が読めない二十代ができあがるんだ?」

「きみの推しは風邪とかひかんのかもしれんやん」

「一理ある」と僕は頷いた。「とにかく、僕の推しは配信歴十年の大ベテランなのに配信の予定も立てず気ままに振る舞う漢字の読めないお姫さまなんだ。ちなみに、推しを『お姫さま』って最初に呼び始めたのは僕じゃないよ。他の誰かが推しを『どんぐり王国のお姫さま』って呼んでいたんだ。たしか『Portal』のゲーム実況の配信中じゃないかな。僕の中ではもう完全に『どんぐり王国のお姫さま』のイメージで固まってしまっているけれど」

 おっさんは「なるほどなあ」と腕を組んで何度も頷いた。僕はおっさんの垂れた顎がぷるぷると震える様子をじっと眺めていた。

「推しがおる生活というのはええものや」

「そうだね」

「長期的な自己実現の先に幸せはない。幸せは刹那の中にある。うまい飯を食うことや、よい女を抱くことや、朝気分良く目覚めることや、あるいは、週に一度の推しの配信を見ることや……そういった人生のデテールにこそ神は顕れるんや」

「なんだかむずかしいな」

「きみたちと推しとを神が結びつける。お互いの人生がよりよくなるように。すべては神の思し召し、というわけや」

 おっさんは「よっしゃ! きれいにまとまったな!」と手を打ち鳴らすと、再びデジタル時計の電池ケースの凹みに体を横たえた。

「じゃ、おっちゃんはもう行く。最後に言っとくが、推しは推せるときに推すんやで。推し方なんかなんでもええねん。力いっぱい推すんや。足りないぶんは神さまがなんとかしてくれる。と、思っておけばなんでもやる気が出てくるやろ? おっちゃんもできる限りのことはしてやるさかいな」

 おっさんが「じゃ、閉めてくれ」というので、僕はパチンと電池ケースのふたを閉めた。

 デジタル時計の液晶パネルが午後九時四十四分に表示を進めた。スマホが振動して「木野瀬らく」のライブ配信の開始を通知していた。僕は配信のオープニングが終わる前に空のポットに紅茶を補給するべく座卓の前を立って部屋のドアに手をかけた。


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