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推しを待ちながら

1:推しとの出会い

 推しに会いに行ったことがある。一年前の話だ。

 推しの名前は、百合原リリエンタール。百合原をドイツ語にするとリリエンタールだから名字と名前が完全に丸被りしてしまっているわけだけれど、リリィさん(と彼女は自分をそう呼んでいた)は「Vtuber界隈では普通なのだわ!」と一向に反省の色を見せなかった。

 多分、リリィさんの配信を見たことのある人はほとんどいないんじゃないかと思う。というのも、リリィさんがYou Tubeにいる時間帯は平日の16時から17時45分までの短い間で、しかも、配信の頻度は週に一度あるかないか、というごく少ない回数だったからだ。

 今と違って当時はまだVtuberがこれほどブームになっていなかったから、企業の後援のない個人勢のVtuberをわざわざ検索してまで見に行く視聴者は限られていた。実を言えば、僕がリリィさんと出会ったのもVtuberの配信を探していたわけではない。単なる偶然なのだ。

 その日、僕が『虹のまわりを三周半』という短編映画を探していると、検索ページのトップになぜかリリィさんのライブ配信が出てきた。どうやらリリィさんの概要欄の「今日観た映画の一覧!」にあった同じタイトルを拾ったようだった。

 正直に言えば、当時の僕はバーチャルYou Tuberについてよい感情をまったく持ち合わせていなかった。可愛らしいアニメキャラの皮を被って邪悪な本性をひた隠しにした自己顕示欲の怪物たち、という印象が偽らざる本心だった。しかし、実際に配信を見て「珍しい映画を観ているね」とコメントしたとき、

「初見さんいらっしゃいなのだわ! 絶対あなたも変な映画ばっかり観てるオタクなのだわ!」

 という反応が返ってきて、僕はあらぬ誤解を解くために結局ずるずるとその日の一時間をリリィさんとの議論(?)に費やす羽目になったのだ。

 リリィさんは「映画鑑賞が趣味の天使、百合原リリエンタールなのだわ」と僕に名乗った。というのも、その日は配信開始から45分が経過していたにもかかわらず視聴者は1人――つまり、僕しかいなかったので、自然と自己紹介の流れになったのだ。

「ひとりぼっちで寂しかったのだわ」

 僕は「配信やめたら?」とコメントした。今思えば随分酷いことを言ったものだ。リリィさんはひとしきり怒るふりをしたあと「やっときた初見さんなので許してあげるのだわ」と僕の暴言を寛大な心で許してくれた。リリィさんは初めて会ったときから天使だった。

 リリィさんのLive2Dは手作りで、決して上手とは言えないけれど不思議な魅力のある自作イラストが、絵のクオリティに比べて異常にギクシャクとした低い精度で彼女の表情を拾っていた。僕が「なかなかいい絵だ」と素直に褒めると、リリィさんは「三面図もあるのだわ!」と配信画面に「正面」「横」「背後」と順番に全身像を表示してくれた。

 デザイン画で見るリリィさんは、配信画面で見るよりずっと天使に見えた。ふわっ、とボリュームのある黄金の巻毛と、宝石のようにきらめく金緑の瞳、そして、レースとフリルをふんだんにあしらった真っ白なドレスから伸びた大きくしなやかな二枚の翼……。

「このフリルとレースを見て欲しいのだわ。これ描くのにめちゃくちゃ苦労したのだわ。我ながらクソ面倒くさいデザインなのだわねえ」

 リリィさんは配信画面いっぱいに洋服のディティールをズームして「形がどう」とか「色がどう」とかをいちいち説明し始めた。僕は女の子のファッションについてまあまあ関心がある方だから「フムフム」と相槌を打ちながら彼女の話に耳を傾けていた。しかし、

「あっ、今日はもう時間なのだわ」

 時計の針が17時45分を指し示すのと同時、リリィさんは三面図を引っ込めると「ごめんなさい」とLive2Dに苦笑を浮かべた。

「今日はお話できて嬉しかったのだわ。あとでTwitterをフォローして欲してくれたらもっと嬉しいのだわね」

 そして、ライブ配信は急にブツッと途切れた。誰かがリリィさんとは無関係に「はいはい、今日はこれまで」とシャッターを下ろしてしまった感じだった。

 配信後にチェックしたリリィさんのTwitterは、フォローは随分たくさんいるのに、フォロワーは3人しかいなかった。しかも、うち2人はどう見ても出会い系のサクラで、もう1人はなんだかよくわからない胡散臭いV関連のコミュニティか何かだった。

 リリィさんのTwitterの更新頻度は恐ろしく低かった。三日まったくTweetなしというのも日常茶飯事で、酷いときには一週間以上平気でTwitterを放置している。

 Tweetを試しに追える分だけ追ってみると、三ヶ月前の「初配信なのだわ!」から今までリプライもリツイートもいいねすらひとつもない。僕はなんだかあまりにも悲しくなってしまって「今日の配信は初見さんがひとり来てくれたのだわ!」という最新のTweetに「いいね」を押しておいた。

「百合原リリエンタールさんがあなたをフォローしました」

 という通知については気にしないことにした。誰がフォローするかはその人の自由なのだ。僕は百合原リリエンタールというVtuberのことなどすっかり忘れて元の生活に戻った。

 しかし、百合原リリエンタールは忘却の彼方から劇的な形で再び僕の前に現れることになる。

2:推しとの交友

 例の配信から一ヶ月半後に僕がジェイク・ギレンホール主演の映画『ナイトクローラー』についてのレビューを読もうとGoogleで検索をかけると、あの百合原リリエンタールが「めちゃくちゃ素晴らしい映画なのだわ!」と情熱的なレビューをnoteに投稿していたのだ。

 リリィさんのレビューはお世辞にも上手いとは言えなかった。僕はシド・フィールドの『映画を書くためにあなたがしなくてはならないこと』やジョーゼフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』を読んだ経験があるから脚本をプロットや間テクスト性などの面からロジカルに言語化することができたけれど、リリィさんは映画全体の漠然とした印象を貧相な語彙で語ることしかできなかった。

 しかし、僕はリリィさんの情熱的なレビューにすっかり心を打たれてしまった。というのも、僕がなまじ脚本の書き方がわかるせいでプロットにばかり注目しているのに対し、リリィさんは映画全体の印象を包括的に捉えることができたからだ。シカゴの夜景を『ヒート』や『コラテラル』と比較して「この映画のシカゴは自然がいっぱいなのだわ!」と紹介しているのが特によかった。僕は脚本の素晴らしさにばかり目がいって映画の舞台が何度も観たことのあるヒートやコラテラルと同じシカゴだったことにまったく気が付かなかったのだ。

 Twitterをフォローして数日後の配信で「ナイトクローラーのレビューがよかった」とコメントすると、リリィさんは、

「あのときの初見さん、お久しぶりなのだわ! あと、思った通り変な映画ばっかり見てるのだわねえ!」

 と、にやにやと人の悪い笑みを浮かべた。僕は「いや、なぜかノミネートすらされなかったけれどナイトクローラーのジェイク・ギレンホールはアカデミー賞を取ってもおかしくない怪演だったよ」とオタク特有の早口でコメントを返した。視聴者数は当然のように僕1人だった。リリィさんは配信の概要欄にハッシュタグすらつけないのだ。

「初見さんはよっぽどジェイク・ギレンホールが好きなのだわね?」
 僕は「映画を観る人はみんな好きだよ」とコメントした。すると、リリィさんはLive2Dにしたり顔で、
「わかるのだわねえ」
 と変な笑顔を浮かべた。僕は「オタクがオタクに向ける笑み」がLive2D越しにも見えた気がした。

 それから、僕とリリィさんはジェイク・ギレンホールの主演映画の話をいくつかした。
『ミッション: 8ミニッツ』
『サウスポー』
『ノクターナル・アニマルズ』
 リリィさんは「ジェイク・ギレンホールが主演というだけでつまんなそうな映画でもつい観てしまうのだわねえ」としみじみ語った。僕は「わかる」と同意した。

 時計の針が17時45分を指し示した。

 リリィさんは「時間なのだわ」と寂しげに微笑んだ。やはり、リリィさんとは別の誰かがシャッターに手を掛けているのだ。僕は「次の配信はいつ?」と尋ねた。リリィさんは「そうだわねえ」と視線を斜め上へやった。

「うーん、三日後くらいに出来るかもしれないのだわね」

 しかし、三日後の火曜日にリリィさんの配信はなかった。水曜日にも木曜日にも金曜日にもなかったし、もっと言えば、リリィさんの次の配信はそれから三週間後の月曜の午後だった。僕はTwitterにすら姿を見せないリリィさんのことを半ば忘れかけていた。

「ごめんなさいなのだわ。天使は多忙なのだわね」

 リリィさんは視聴者数が相変わらず「1人」な配信で僕に苦笑した。僕は「随分マイクが遠いみたいだけれど」とコメントした。リリィさんは「今ちょっと大きな声が出せないのだわね」と言って「しーっ」と声をひそめた。僕はyoutubeのボリュームのバーを最大にした。

「初見さん、また来てくれたのだわね。しかも、こんな平日の真っ昼間に」

 僕は「転職の都合でしばらく休みなんだよ」とコメントした。すると、リリィさんは「いやいや」と苦笑した。

「なにもかもわかっているのだわ、初見さん。でも、リリィさんは天使なので詳しくは言及しないでおいてあげるのだわ。感謝して欲しいのだわ」

 僕が即座に「いや、ニートじゃない」とコメントを打つと、リリィさんは「うんうん」と優しさに満ちた声で何度も頷いた。

「わかっているのだわ」

 リリィさんが「黒澤映画が観たいのだけど何から観ればいいのか迷うのだわ」というので、僕は「時代劇なら『椿三十郎』で、現代劇なら『天国と地獄』かな」とコメントした。代表作の『七人の侍』は初見にはいくらなんでも長すぎる。他に「古い名作も観たいのだわ」と言うので『大脱走』と『サムライ』もオススメした。

 僕が「サムライは途中で眠くなるかもしれない」とコメントすると、リリィさんは「まあ地上のお友達のチョイスを信じるのだわね」と肩をすくめる感じで返事をした。

 ふと、僕はマーベル・シネマティック・ユニバースの最新作である『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』でジェイク・ギレンホールが「ミステリオ」を演じることを思い出した。すると、リリィさんも「楽しみなのだわね!」と興奮した調子で声を弾ませた。

「普通に考えればヴィランなのだけれど、ジェイク・ギレンホールならヒーローでもぜんぜんおかしくないのだわ! マーベルもいいキャスティングをするのだわねえ! テンション上がってきた!」

 僕が「僕は公開日に観に行くけれど、リリィさんは?」と尋ねると、リリィさんはニッコリ笑ってマイク越しに首を振る気配を伝えた。

「天国では、映画の公開は半年遅れなのだわね」

 リリィさんは「ネタバレを気にする必要はないのだわ」とは言ったけれど、僕は古き良き生粋のシネフィルなので公開日の朝イチで映画を観に行ったあとも少しもネタバレはしなかった。リリィさんが、

「配信日当日に400円かけて観る価値があるかどうかだけこっそり教えて欲しいのだわ!」
 というので、僕は「内緒^^」とコメントした。リリィさんが「ああああああ!」とマイクの前で頭を抱える気配がした。

「『アイアンマン2』や『ソー』や『ドクター・ストレンジ』みたいな感じだったら400円払うのはちょっと嫌なのだわ!」
 
 僕が「『アイアンマン2』と言えばファヴローの『フードトラック』はよかった」とコメントすると、リリィさんは「わかる」としみじみ答えた。

「監督の苦悩が垣間見えるのだわねえ。アイアンマン2も決して悪い映画ではないのだけれど、ファヴローにあんな凡作を撮らせるのは勿体ないと思ってしまうのだわ」

 僕が「いや、2はクソ映画だよ」とコメントすると、リリィさんは「本当のことを言うのはやめるのだわ!」と大声で叫んだ。

3:推しとの別れ

 僕とリリィさんの交流は、その後も緩やかに続いた。

 リリィさんの配信はおおむね週に一度で、僕らはそのたびお互いが読んだ本や観た映画の話題を交換した。本で言えば、リリィさんは現代の女性作家のラブロマンスやベタ甘の少女漫画が好きで、僕の知らない名作をたくさん紹介してくれた。僕も歴史小説やSF小説から古典の名作たちを紹介した。僕が「これがもうめちゃくちゃに名作なんだよ」と言って山本常朝の『葉隠』を紹介すると、リリィさんはさすがに困惑した声で「初見さんは国粋主義者じゃないのだわよね?」と控えめに尋ねた。僕は新渡戸稲造の『武士道』やオイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』も紹介した。リリィさんはその後しばらく僕を「右翼のやべーやつ」だと思い込んでいたようだった。

「そう言えば、スパイダーマンFFHを観たのだわねえ! 色々と言いたいことはあるけれど、ミステリオの『今はマントをして空を飛ばなきゃ誰も見向きもしない』という言葉が全てだわね。あとオランダ人がやたら優しいの草なのだわ」 

 僕は鑑賞当時のことを思い出しながら「ジェイク・ギレンホールの演技力が存分に発揮された作品とは呼べなかったかな」とコメントした。リリィさんは「そうだわねえ」と言葉を選ぶように押し黙った。

「でも、ジェイク・ギレンホールのキャリアとビジュアルがなければ、きっと初見さんやリリィさんは公開日までこれほどヤキモキさせられることはなかったのだわ。だから、やっぱりジェイク・ギレンホールの出演は正解だったとリリィさんは思うのだわね」

 あと、とリリィさんは感情を噛みしめるように、

「ピーターとMJのラブロマンスがめちゃくちゃよかったのだわねえ。こう、青春の甘酸っぱさをめちゃくちゃに感じるのだわ。というか、修学旅行先のプラハで世界を守りながらラブロマンスとかストーリーのノリが全体的に00年代のラノベなのだわね!」

 僕が「リリィさん彼氏は?」と尋ねると、リリィさんはニッコリ笑って首を振った。

「リリィさんは天使だから彼氏は作れないのだわ」

 僕が「二ヶ月後には『ジョーカー』が配信だね」というと、リリィさんは「ジョーカー!」とまた声を一段高くした。

「いやもうネタバレを回避するのが大変なのだわねえ! Twitterで大はしゃぎしてる初見さんを見てリリィさんも『絶対観なきゃ(使命感)』ってなったのだわ!」

 僕が「今年のアカデミー賞は絶対ホアキン・フェニックスだよ」とコメントすると、リリィさんは「かーっ!」と膝を叩くような音を立てた。

「予告からして神が降りた気配しか感じなかったし、やっぱり映画館に観に行くべきだったのだわねえ!」

 僕は「まったくその通り」とコメントを打つと、リリィさんは急に黙り込んだ。僕はちょうどAmazonで次に観る映画を見繕っているところだったので、最初は少しも気にしなかった。リリィさんも何か調べ物をしているんだ、と思った。

 しかし、配信画面をふと見るとリリィさんのLive2Dはリリィさんの表情を正確に捉えていた。リリィさんの口元は動いていた。僕は「?」とコメントを打った。リリィさんに「マイクがミュートだよ」と続けてコメントを送った。

 しかし、リリィさんは何も言わずニッコリと笑った。

 配信画面は満面の笑みを浮かべたリリィさんのLive2Dを十時間以上配信し続けたまま、最後はyoutubeの方の処理でライブ配信を打ち切った。僕は転職先の会社に出す書類やなんやかんやの作業をしながら夜中の一時過ぎまでリリィさんが戻ってくるのをPCの前で待っていた。

 二ヶ月が経ち、ジョーカーの配信が始まってもリリィさんはTwitterすら再開しなかった。僕は転職先の会社に自分の机を得て毎日つまらない仕事を片付けながら心の片隅で「今から急にリリィさんの配信が始まったら困るなあ」とずっと考え続けていた。

 幸か不幸か、僕の仕事中にリリィさんの配信が始まることはなかった。僕は朝起きるとリリィさんのTwitterをチェックし、夜寝る前にリリィさんのTwitterをチェックした。もちろんTweetがあればスマホに通知が届くようにはしてあるけれど、万に一つということもある。

「初見さん酷いのだわね! 初見さんが転職した頃から毎日ずっと配信してたのだわね!」

 午後三時を過ぎて仕事が一段落すると、配信で再会(?)したリリィさんがそんなことを言って臍を曲げているのをよく想像した。僕の心の中の本棚にある「リリィさんに紹介する作品の一覧」は日を追うごとに膨大な数に登っていった。候補作が半年かかっても消化しきれない量になったので、僕は150作を超える作品のリストを選びに選んで30作まで厳選し、その中からさらにベスト10を選んだ。

 しかしまあ、最近のおれはリリィさんのことばっかり考えているな、と思った。

 リリィさんからダイレクトメッセージが届いたのは、最後の配信から八ヶ月後のことだ。僕が飲み会の席で上司の上司から東京本社の営業企画室で働く気はないか、と言われて「また引っ越しかあ」という面倒な気持ちをひた隠しに愛想笑いを浮かべているときにスマホの通知が鳴ったのだ。僕の顔色を察した上司の上司が「どうした?」と心配げに尋ねるのに、僕は「緊急事態です」と断りを入れるとそのまま飲み会を抜けて電車に飛び乗った。そして、メッセージを開封した。



 初見さんへ。

 お元気ですか。百合原リリエンタールです。

 最後の配信からずいぶん時間が経ってしまいました。初見さんはたぶん転職先の会社で働き始めていますよね(本当かあ?)。

 リリィさんは急な神さまのお召しでここ最近ずっと忙しくしていました。残念ながらいまだにジョーカーも観られていません。今どんな映画が公開中なのかもわかりません。でも、神さまのお召しなので仕方がありませんね。
 
 近々、たぶん、半年後くらいに天国へ帰ることになりました。

 こんなことをお願いするべきかどうか、リリィさんも迷いに迷ったのですが、リリィさんの地上でのたった一人のお友達(ですよね?)である初見さんにはお伝えしたいと思い、こうしてスマホを取りました。

 会いに来てくれると嬉しいです。

 百合原リリエンタール(名前を改めるつもりはありません)より。」


 僕は「もちろん」と返信した。それだけ打つのに山手線が一周するほどの時間がかかった。

4:推しとの再会

 もちろん、女の子と――しかも、推しに――会いに行くわけだから、僕は気合を入れて身嗜みを整えた。クローゼットの奥から普段めったに着ないイタリア製のオーダーメイドスーツを引っ張り出して袖を通し、スーツの色に合わせた焦げ茶色のタイを締めた。タイピンとカフリンクスも銀製の高級なやつを付けた。靴はぴかぴかに磨き抜いたチャーチの革靴だ。
 
 予約した美容院に入ると担当の美容師が僕の格好を見て「ははあ」という感じの笑みを浮かべた。

「デートですね?」

 僕は「王子様にしてください」と言った。美容師は「お任せあれ」という感じで頷き返した。実際、美容師の腕はたいしたものだった。うだつの上がらないサラリーマンを貧乏な国の没落貴族くらいの見た目にはしてくれた。

 それから、僕は駅前の花屋にいって「これを全部」とバラの花を指差した。花屋の店員は瞬きしたあと「全部?」と尋ね返した。僕は店員の言葉の裏にある「御冗談ですよね」というニュアンスを無視して「全部」と繰り返した。

「プロポーズですか?」

 僕は「どうしても必要なんです」と首を振った。店員は「やるだけやってみましょう」と頷き返した。結果、僕は両手に抱え切れないほどのバカでかいバラの花束(もはや花束ではない)を持ってフラフラしながら駅前でタクシーを待つ羽目になった。

「結婚記念日かい?」

 僕は「もっと大事な記念日ですよ」と答えた。タクシーの運転手は行き先を聞くとすごく驚いたあととても悲しそうな顔をした。

 リリィさんは、国立がんセンターの緩和ケア病棟で僕を待っていた。僕が病室のドアを通り抜けられないほどバカでかいバラの花束を持って現れると、リリィさんはいつも配信でよく聞くあの声で手を叩いて大笑いしてくれた。しばらくすると、随分小さな花瓶に移し替えられたバラの花束の一部が窓際にそっと添えられた。残りはナースステーションに飾られる、という話だった。

「王子様みたいなのだわね」

 僕は「王子様さ」とリリィさんのベッドに跪いて起き上がることのできない彼女の痩せた手を取った。リリィさんは「なのだわね、って語尾をどう思う?」とちょっと恥ずかしそうに僕に尋ねた。僕は「控えめに言って天使だと思う」と答えた。リリィさんは「うーん」と耳を赤くして唸った。

「でも、リリィさんはもうこんなんだし」
 僕は「とっても素敵な天使だよ」と首を振った。そのあと「リュック・ベッソンの『アンジェラ』よりも天使だ」と良い添えたけれど、リリィさんは残念ながら『アンジェラ』を見たことがなかった。

「あれ予告が退屈そうなのだわね」
 僕が「退屈なんだよなあ」と答えると、リリィさんはクスクスと小さく笑った。胸の穴から管を突っ込んで肺に酸素を送っていることに鑑みればじゅうぶんに魅力的な笑い声だった。

 他に話題らしい話題もなかったので、リュック・ベッソンの映画について語ることにした。僕は『ニキータ』が一番好きで、リリィさんは『レオン』が一番好きだった。そして、なぜか二人とも『ジャンヌ・ダルク』のラストがどうなったのか知らなかった。

「オルレアン解放の直後から急にめちゃくちゃつまらなくなるのだわね?」

 僕はナイフでりんごの皮を剥きながら「なんでだろうね」と首を捻った。皮を残してうさぎさんの形にしたりんごを見せると、リリィさんはニッコリと笑って首を振った。僕は病院の売店で買ってきたりんごを丸々三つ全部自分で食べてしまった。

 僕は四つめのりんごの皮を剥きながら「ジョーカーは観ないの?」と尋ねた。リリィさんは今度もニッコリ笑って首を振った。

「もう120分も起きていられないのだわね」

 実際、ふと気づくとリリィさんは僕と話している間も何度かウトウトと微睡みにひたっているように見えた。僕はリリィさんが同じ話を繰り返しても何も知らないフリをして同じように答え続けた。ジャン=ピエール・メルヴィルの『サムライ』を二回も観たという話を三回ほど繰り返したあと、リリィさんの意識はゆっくりと柔らかく温かな泥の底に沈み込んでしまった。
 
 看護師さんを呼んだあと、僕は丸椅子から立ち上がってリリィさんの頭を毛糸の帽子の上から撫でた。もちろん、リリィさんは天使のように素敵な女の子だった。

 黄金の巻毛はふわふわとボリュームたっぷりで、金緑の瞳は宝石のようにきらめき、そして、真っ白なドレスの背中にはきっとうつくしい翼を隠しているのだろう。
 
 僕はメモの一ページを破って「明日また来ます。 王子様より」とリリィさんの枕元にメッセージを残した。しかし、リリィさんがそのメモを読むことはなかった。



 初見さんへ。

 初見さんがこのお手紙を読んでいるということは、リリィさんは天国へ行ってしまった、ということですね?

 推しがいなくなってさそがし寂しい思いをしているのでしょう。お察しします。

 リリィさんには地上でやり残したことがたくさんありました。MCUがどんな形で終わるのか気になりますし、話題の『ジョーカー』も観たかったですし、なによりエヴァンゲリオン新劇場版がどんなラストを迎えるかを観るまでは天国へ行くのは嫌だなあ、と思っています。

 でも、なにも心配する必要はないのですよ。地上の映画は、天国でも半年遅れで上映されるのです。天国で映画を観るのが楽しみです。

 それから、神さまにお願いして配信環境を整えてもらうつもりです。もちろん、天国にYou Tubeはありませんから、別の形で配信をしようと思います。どんな形になるかはわかりませんが、お待ちいただけると嬉しいです。

 そうですねえ。

 もし、神さまから配信の許可がおりたら(きっとおりると信じています)、一年後の今日、

 12月24日

 の午後9時頃に配信をします。もう病院の時間割を気にする必要はありませんから、初見さんのお仕事が終わったあとに配信ができますね。

 12月24日の午後9時になったら、夜空を見上げてみてください。他のひとにはいつもとおんなじ空に見えると思いますが、きっと初見さんには何か違うものが見えるはずです。それが何かはリリィさんにもわかりません。

 でも、初見さんには何かが見えるのです。

 では、一年後の今日、またお会いしましょう。先に言っておくと、今日はお見舞いに来てくれてありがとうございました。初見さんがどんな人なのかまだわかりませんが、きっとリリィさんのような心優しい天使しか話し相手のいない寂しいひとなんだろうなあ、と思っています。

 天国より親しみを込めて。
 百合原リリエンタールより」


 というわけで、

 僕は今、記録的な大雪が降りしきるアパートメントのベランダで尋常ではない寒さに震えながらこのnoteを書いている。午後九時をとっくに過ぎているのに夜空なんかどこにも見えやしない。配信に備えて水筒にたっぷり入れた熱い紅茶はもう全部飲み干してしまった。

 僕は念の為にスマホを逐一チェックしながら神さまが天国からの初配信を許してくれるのを待った。もしかすると、リリィさんが「ごめんなさい! 今日の配信は神さまの許しが出なくて延期なのだわ!」という旨のツイートをしないとも限らないのだ。

 僕は分厚い毛皮のライナー付きのモッズコートのジッパーを首の付け根まで引っ張り上げると、椅子の肘掛けに積もった雪を手袋で払った。スマホで天気予報をチェックすると「雪がやむのは明け方になる」という見通しだった。空が晴れるのがいつになるのかは誰にもわからない。

 まあ、いいさ。

 僕は毛皮のファーが付いたフードの紐をぎゅっと締め直した。そして、電池が切れそうなスマホをポケットにしまった。

 推しの配信がいつ始まるかわからないのはいつものことだ。だいいち、僕はリリィさんの配信を八ヶ月待ち続けた男だ。百合原リリエンタールのリスナーは我慢強いってところを神さまに見せてやるとしよう。

 僕はいっこうに晴れる気配のない雪の夜空を見上げる。
 きっと今の僕を見て天国で笑っているだろう、


 推しをいつまでも待ちながら……。

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