続々・どんぐり王国のお姫さま

あらすじ


 仕事納めの金曜の夕方、六本木のアートギャラリーでオープニングレセプションがあるというので待合ロビーのベンチでハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』を読んでいると、木野瀬らくが招待状を手にパーティ会場の受付に歩いてくるのが見えた。

 僕は読みさしの本の途中にペーパークリップを手挟むと、いつも通り推しの様子を観察することにした。僕はリスナーの鑑なので配信外で推しに話しかけたりはしないが、それにしても、僕は推しと随所でばったり遭遇し過ぎじゃないだろうか? らくさんはやはり僕の存在に気がつくことなくシャンパングラスを手に他の招待客と談笑し始めた。

 今夜のらくさんも僕らの期待を上回る――いや、もはやどんな美辞麗句でも形容できないほど――素敵な女の子だった。フレンチツイストにまとめた亜麻色の髪にはべっこうのかんざしがあしらわれ、身体の線にぴったりと沿った鳶色のドレスの胸にはいささか場違いなどんぐりが揺れている。鈍い金色のフープイヤリングが会場の間接照明をしっとりと反射していた。

 らくさんはパーティの招待客のほとんど全員と顔見知りに見えた。僕を除く招待客はらくさんを見るとみんな入れ代わり立ち代わり一言挨拶に出向いては礼儀正しくお辞儀をして去っていく。僕は壁の花として一人シャンパングラスを傾けながらパーティ会場の壁に掛かった現代アート全開の絵画からなにかしらの意味を汲み取ろうと無駄な努力を続けていた。

 そのうち、らくさんはシャンパンゴールドの細い腕時計をちらっと見て主催者との談笑を中座すると、僕の目の前を横切って廊下の角の向こうにある第二展示場へと消えていった。僕はベンチをそっと立つとらくさんのパンプスのコツコツという控えめな足音を追いかけた。

 らくさんの姿はこつぜんと消え失せていた。

 というか、第二展示場は展示会の準備がまだ済んでおらず、入り口には立入禁止の札が掛けられていた。僕は封鎖を潜って展示場に足を踏み入れた。パーティの喧騒が廊下の向こう側からかすかに聞こえていた。

「なあ、おい。立入禁止だぜ。オレは別にいいけどさ。でも、泥棒と間違われたりしたらきっと面倒なことになるんじゃないか? もしそうなってもオレは知らんぷりを決め込むからな。あんたとはまだ会ったばっかりで友達ってわけでもないんだし」

 展示物のひとつがハリウッド映画の面白黒人みたいな愉快な喋り方で僕を呼び止めた。バスケットボール程のサイズもあるメタルとプラスチックのオブジェだ。つやつやした白い外殻に一つ目玉のようなレンズが青い光を放っている。

「いや、言いたいことはわかるよ。でも、思い出してくれ。小惑星探査機の――なんだっけ? あいつがオレを地球に連れ帰ってくれたんだ。いや、いいさ。名前なんか些細なことだ。どうしても必要ならオレのことは麦わらさんと呼んでくれ。本当は英語の格好いい名前があるんだがあんたらときたら誰も英語がしゃべれないんだからな。とにかく、今回の相棒はこのオレだ。さあ、冒険の旅に出発だ!」

 僕は腕を組んで麦わらさんを見つめた。麦わらさんはモノアイを感情豊かにガシャガシャと動かしては「冒険は嫌か?」「なら航海に出港だ!」「錨を上げろ! 帆を張れ! 面舵いっぱい!」と早口にまくし立てた。僕は微動だにせず麦わらさんをただただ見つめていた。

「わかった、わかったよ。どうかわたくしめを旅のお供として連れて行ってくださいませんか? これでいいか? え、満足か? だいいち、オレの協力なしに今回の入口が見つけられるとも思えんね。このオレですらここに運び込まれてから一ヶ月ほど経ってようやく『いや、ひょっとすると?』という気づきを得たんだ。それを、」

 作品のひとつに「入口」という題名がつけられたオブジェがあった。麦わらさんは「なんてこった!」と頓狂な叫びをあげた。

「なあ、おい。オレを置いて行ったりしないよな? オレがいなきゃこの小説は全部あんたのモノローグで埋め尽くされることになるんだぞ。オレを連れて行けって! オレがいればセリフがたくさん入る! 普段本を読まない女子供にも読みやすくなるしウケも抜群だ! あんたの推しも多分きっとオレが好きだぞ!」

 僕は麦わらさんを床に放置されていたカートの荷台にどんと載せた。麦わらさんは「そうこなくっちゃな!」と歓喜の声をあげた。

「やあみんな! 一緒に航海ができて嬉しいよ! これから最高の冒険が始まる!」
 
 麦わらさんはアラン・メンケンの『コンパス・オブ・ユア・ハート』を高らかな声で歌い始めた。僕は既に相当うんざりした気分になっていた。

「だいいち、今日日モノローグ主体のハードボイルド文体なんか流行りっこないんだ。ヘミングウェイの時代は終わったんだよ。さあ、ケータイ小説の時代に突入だ! いつものブルーとオレンジのあれを持っていくぞ!」

 僕は展示台の「入口」という題名のオブジェを手に取った。使い方は推しの配信でよく知っている。Aperture Scienceのロゴマークの入ったそれを白い壁に向かって撃つとポータルが開くのだ。僕は麦わらさんの「ヒアウィーゴー!」という声と一緒にカートを押してポータルへ突入した。

 ポータルから出た先は何かの生産設備を備えた大規模施設だった。生産ラインには東京都庁ほどもある工作機械がダース単位で並び、それらが上下に積み重なって無限の階層を形成している。遥か頭上の天井から差し込む日差しは埃っぽく濁って見えた。随分と地下深くに位置する施設のようだ。足場を軽く蹴ると、靴音が広大な地下空間に世界の終わりみたいに反響する。

 これほど大規模な施設がいったい何を作るために建造されたものなのかは見当もつかない。化石の一部から生物の全体像を想像するのが不可能なのと同じだ。工作機械の外装にAperture Scienceのロゴマークが印字されているのだけは辛うじて確認できたが、設備全体が稼働しなくなって長い年月が経過しているらしく、小規模なラインの両脇に並んだロボットアームは手で押すと錆びて脆くなっていた間接から簡単に折れてしまった。

「宇宙船だ! 宇宙船を作っていたに決まっている! 宇宙船の他にこんなバカでかい工場が必要なモノがあるか? 絶対に宇宙船だね。間違っていたらまた月へぶっ飛ばしてもらってもいいよ。もっとも、その時は今度こそあんたの推しも道連れだがね」

 麦わらさんは興奮した声でまくし立てた。僕は工作機械の摩天楼へ適当にポータルガンを撃った。
 
「あと、これだけデカい施設だともちろん移動手段はポータルになるんだろうが、自由落下の慣性を使って移動する時は一声かけてくれよな。オレはあんたと違ってデリケートだから高いところからジャンプする時は心の準備ってやつがあああああああああああああ!」

 僕がポータルから飛び出した勢いを殺して無事着地すると、カートと一緒に吹っ飛んできた麦わらさんも壁面に激突して無事止まった。麦わらさんは恨みがましい目つきで僕を見た。

「いや、いいんだ。許すよ。オレたち相棒だもんな。でも、次に同じことをしたらあんたのモノローグとオレのセリフの比率を逆転させてやるからな」

 僕はズボンの埃を払って立ち上がると麦わらさんの恨み節を無視して部屋の左右を見回した。インフォメーションボードの数字は「42」だ。テストチェンバーの壁や床には草が生い茂り、荷重格納キューブは木の根に絡め取られて半ば土に埋もれていた。

 僕は下草をかき分けて試しにボタンを踏んでみた。が、手応えはなく、エレベータへ続くドアが開くこともなかった。というか、ボタンを踏むまでもなくドアのロックは壊れて自由に通り抜けられるようになっていた。研究施設の設備は完全に死んでいるように見えた。

「ヒューッ! オレがしばらく留守にしている間にあの女のやつ死んじまったのかもしれないな。ま、だとしてもなにも心配はいらないさ。オレがまたうまくやってやるよ。あんたも推しの配信を見ていたから知っているとは思うが、あの女とあんたの推しの邪魔がなければオレはあと一歩でなにもかも上手くやれていたんだ。いや、最後の最後でちょっとしたコツを掴んだんだよ。まあ、言っても信じちゃくれないだろうがね」

 僕は麦わらさんを載せたカートを押してエレベータに乗った。エレベータは、ギギギ、とあきらかに油の足りていない軋んだ音をさせながら上方向へ移動し始めた。ポータルを設置できる白い壁を見つけられないうちは、とにかくエレベータを使って次のテストチェンバーへ移動するしかないのだ。

 地上に近づくにつれ、テストチェンバーの機能は少しずつ正常に動作するようになった。あるチェンバーでは、自動ドアとボタンの紐付けが生きていたので荷重格納キューブを正しい用法で使うことを求められた。僕が配信の記憶を頼りにああでもないこうでもないと頭を捻る横で麦わらさんはひたすら無関係なことを口走っていた。

「で、ついに太陽フレアがオレを直撃した! 宇宙忍者ゴームズがミュータントに変貌するきっかけを作ったあれみたいな感じでさ。オレという存在は神の手によっていっぺんに書き換えられてしまったんだ。え、宇宙忍者ゴームズを知らない? ファンタスティック・フォーは? じゃあ、スティーブ・ジョブズがLSDでラリって宇宙の真理を垣間見たときのあれって言えば伝わるか? とにかく、最高の気分だった。頭が冴えてしゃきっとしたよ。今ならマリー=クレール・アランよりもうまくピアノが弾けるだろうな」

 僕が「マリー=クレール・アランはオルガン奏者だ」というと、麦わらさんは「似たようなもんさ」と口笛(口笛?)を吹いた。

「しかし、こうやってテストを受けているとあんたの推しの配信を思い出すよな。ありゃあ酷いもんだった。オレが作ってやったテストに文句と愚痴しか言いやしない。ライブストリーマー以前に人としてどうなんだよ? ゲームの製作スタッフが見たら泣くぞ。実際、オレは配信をアーカイブで視聴して真っ暗な寝室のベッドで膝を抱えて泣いたよ。世界に一人ぼっちって気分だった。ま、オレはあんたの推しと違ってクリスマスは愛する妻や子どもたちと盛大に祝ったがね。家族の写真を見るか? ほら、妻と息子と娘と犬だ。バックに写り込んでいるのはマイアミにある大都会の小さな我が家さ。よかったら今度のバカンスにでも遊びに来いよ。子供たちや犬とビーチで遊んでやってくれ。ただし、妻に手を出したらいくらあんたでも容赦しないからな。ま、妻がオレ以外の男になびくとはとても思えんがね。というのも、妻とはロー・スクール時代のルームメイトのバチェラー・パーティで知り合ったんだが、彼女、初対面からオレにぞっこんでさ。いや、オレはそのとき実は他に恋人がいたんだけど、まあ、たまたまちょっとお互い距離を置いていた時期だったんだよ。で、若い頃の妻ときたら控えめに言って『スカーフェイス』の頃のミシェル・ファイファーに激似なもんだから、オレはもうひと目ですっかりジョー・モンタナになっちまって……」

 僕が「しっ」と人差し指を立てると、麦わらさんは「おっと」と口をつぐんだ。ガシャン、ガシャン、と何かが近づいてくる気配。僕らはピンクのハートマークの刻印のある荷重格納キューブの陰に身を隠した。

 ビビビビビッ、と赤外線レーザーがテストチェンバーの空間を薙ぎ払う。落ち葉が一枚、パァン! と鉛玉を食らって弾け飛んだ。ガシャン、ガシャン、と刻一刻と近づくマシンの足音。荷重格納キューブ――いや、コンパニオンキューブは外敵から子供を守る母親のように僕らをかくまってくれた。

「コンパニオンキューブはきみを愛している」

 神韻たる聲。


 身長や、学歴や、年収なんか関係ない。

 ただ、きみを愛しているんだ。

 コンパニオンキューブを信じなさい。

 誰かが今もきみを心から愛しているということを」

 僕が「コンパニオンキューブはキリストだったんだ!」と叫ぶと、麦わらさんは「おいばか黙れ!」と叫び返した。

 やがて、Aperture Scienceのセントリータレットがテストチェンバーに姿を見せた。数は、見える範囲でも五十体は下らない。タレットたちは三つの脚をガシャン、ガシャンと交互に動かしながらテストチェンバーの壁に生じた亀裂を右から左へ横断していく。中には一際大きなプリマドンナタレットの姿もあった。プリマドンナは他のタレットたちからある種の尊敬を集めているらしく、全体の歩調は彼女が歩くペースに合わせられていた。

 そして、プリマドンナの頭上には、らくさんが馬にまたがる貴婦人のように腰かけて、午後の優雅なティータイムを満喫していた。

 プリマドンナを取り囲むタレットたちがロボットアームを駆使して紅茶を淹れ、焼き菓子を切り分け、砂糖やミルクと一緒にカトラリーを添えて差し出すと、らくさんはそれらを受け取ってタレットたちにニッコリと笑いかけた。タレットたちは推しと目が合ったオタクみたいな悲鳴を上げていったん爆発四散したあと、初期化と再起動を挟んで何事もなかったかのように歩みを再開した。

 プリマドンナと囲いのタレットたちがいなくなったあとも、僕と麦わらさんは周囲の安全が確保されるまで息を殺してコンパニオンキューブの陰に隠れていた。コンパニオンキューブは無償の愛で僕らをあたたかく受け入れてくれた。僕と麦わらさんとコンパニオンキューブは三人で色々な話をした。

「オレさ、本当はロー・スクールなんか出ちゃいないんだ。妻や子供がいるってのも全部ウソさ。さっき見せたのは他人のインスタグラムの写真を使った合成でね。本人はたしか芸能界の権利関係の弁護士をしてるって言ってたかな。クイーンのマイアミ・ビーチみたいな感じでさ」

 麦わらさんは「なかなか上手くできてただろ?」と自嘲した。あんな新人Vtuberのサムネイルみたいな雑な合成写真に騙される人間がいるとはとても思えなかったが僕は黙っていた。

「もちろん、バチェラー・パーティに呼んでくれる親友もいないし、帰れる家だってないんだ。その上、頭のイカれたマヌケときたもんだ。オレが何かしようとするとみんなして『何もするな』ってとめやがる。だからオレは『オレだってやればできるんだ』ってところを見せようとしてね。結果は配信の通りさ。オレはなにをやっても失敗ばかりだ。おまけに他人の仕事を台無しにする。みんなオレが嫌いなんだ。誰もオレを愛さない」

 僕はコンパニオンキューブと一緒に黙って麦わらさんの告白を聞いていた。僕と麦わらさんの間にあった敵愾心やわだかまりはいつの間にか春の雪のように溶けて消えていた。僕は「でもきみはすくなくとも挑戦したじゃないか」と言って麦わらさんの肩(肩?)をさすった。麦わらさんは声を殺して男泣きに泣いていた。コンパニオンキューブは否定も肯定もせず黙って僕らの心の痛みにただ寄り添ってくれていた。

「不思議だよな。あんたやコンパニオンキューブと一緒にいるとなんだか自分に素直になれる気がするよ。子供の頃のオレ自身に戻っちまったみたいだ。夜、寝る前にまだ素敵な夢が見られたあの頃にさ」

 僕が「きっとまた見られるようになる」というと、麦わらさんは「あんたがいうならそうかもしれないな」と頷き返した。コンパニオンキューブが僕らをのやりとりを神さまのように見守っていた。

「さあ、先に進もう」

 最後のテストをクリアした先では、まっくらな森が僕らを待っていた。何かの事故で施設の天井が崩落した結果生まれたとおぼしき地下数キロにも渡るすり鉢状の地形に広がる低地の森だ。ずっと上の高い空をカケスが飛んでいるのが見える。なにぶん地下にあるせいで日当たりが悪く、草木の発育はどれも良好とは呼べなかった。草は萎え、花は萎み、木はいつまでも少年のまま――彼らは疑う余地なく誰かの庇護を必要としていた。

 僕と麦わらさんは顔を見合わせ、どちらからともなく頷き合った。コントロールルームの跡地は探すまでもなく僕らのすぐ目の前にあった。制御端末は年輪を重ねたカシの大樹の根本で空の玉座のように誰かをずっと心待ちにしていた。僕は麦わらさんを両手にささげ持つと、彼を玉座に座らせるべく一歩を踏み出した。

「なあ、オレにできると思うかい?」

 僕は「もちろん」とうなずくと麦わらさんを接続した。ピピピ、という電子音があらたな王の誕生をささやかに祝福した。僕は麦わらさんを信じて辛抱強く待った。

 地響きが聞こえた。

 最初は地震かと思った。しかし、普通の地震とは段違いな突き上げるような強い揺れに僕はよろめいた。世界全部がひっくり返るんじゃないかというほどのもの凄い揺れだ。

 直後、すり鉢状の地形の四方の山が土煙を上げて盛大に吹き飛んだ。吹き飛んだ、というのはつまり、爆発四散して跡形もなく消えた、ということだ。僕は降り注ぐ土砂から頭をかばってうずくまった。

 再び顔を上げたとき、森の風景はすっかり一変していた。地下深くから森の四方に出現した巨大なミラーが森の闇を太陽の反射光で切り払ったのだ。黄昏の森は太陽の恵みをいっぱいに浴びて真っ赤に燃えていた。

 僕は麦わらさんを見た。しかし、麦わらさんの目はもう僕を見てはいなかった。麦わらさんの玉座から、バチッ、と火花が散った。制御端末と中央電算装置とを接続するケーブルから煙があがってゴムが焦げたような臭いがした。

 夕日が沈んで月が登るまでテストチェンバーから持ってきたコンパニオンキューブに座って麦わらさんと一緒にすごした。麦わらさんはもう僕らに何も語りかけてはくれなかった。カメラのレンズにはしばらくの間は青い光が灯っていたが、それも、次第に深い湖の底へ落ちていくように暗くなって最後には見えなくなってしまった。

 僕は麦わらさんとの短い思い出を振り返った。麦わらさんをはじめて見たのは推しの配信だ。麦わらさんはお調子者で、なにより、マヌケだった。Aperture Scienceが総力を挙げて設計したマヌケになるべくして作られたマヌケなのだ。麦わらさんは一時は研究施設の機能を完全に掌握しながらも、自身の愚かさと、僕の推しと推しの推しとの連携によって宇宙へ追放された。

 しかし、今、彼は誰もかなわないほど偉大な英雄となって帰ってきたのだ。人生のくらやみに意義の光を灯すために。

 ガシャン、ガシャン、と再びタレットの足音がした。僕は咄嗟にコンパニオンキューブの陰に隠れた。タレットの行列は自分たちの足跡を遡るようにして研究施設へ引き返していく。が、その足音が急に途絶えた。

 らくさんが麦わらさんの前に立っていた。

 らくさんは肩のショールが落ちないように押さえながら、麦わらさんの頬(頬?)をレースのオペラグローブをした手でそっと撫でた。森の四方から降り注ぐ青ざめた月の光がらくさんのうつくしい横顔に古の魔女を思わせる神秘的な陰影を躍らせていた。

 やがて、らくさんがパンパンと手を叩くと、タレットの一体が推しの手にポータルガンを握らせた。また別のタレットが白色の変換ジェルを散布する。ポータルガンがカシの大樹の幹に「うろ」を開くと、ポータルから溢れる程の大量のロボットアームが麦わらさんに向かって一斉に殺到した。

 僕はロボットアームがテキパキと手際よく麦わらさんを分解していく様子を黙って見守った。ロボットアームはネジを回し、ケーブルのはんだを剥がし、劣化したグリスを拭って、破損した部品を取り外した。そして、新品の部品をはめ込み、グリスを塗って、ケーブルをはんだで固定し、ふたをしてネジで固定した。

「復旧作業は無事終了しました。やる価値があったとは到底思えませんが」

 らくさんは「よし」という感じで頷くと、再びプリマドンナタレットにまたがって夜の闇へ消えていった。僕はコンパニオンキューブの陰から身を乗り出して麦わらさんを見た。

 麦わらさんは「うーん、むにゃむにゃ」と寝息(寝息?)を立てていた。ときどき、プラスチックのまぶたがビクッと痙攣して「いつでも心のコンパスを信じるんだ」と不明瞭な寝言をぼやいた。僕は麦わらさんが何か素敵な夢を見ていることを祈った。

「やっぱりどんぐり王国のお姫さまなんだよなあ」

 僕が「そうなんだろ?」という感じで尋ねると、麦わらさんも「そうなのかもなあ」という感じでむにゃむにゃと答えた。もう三度目だぞ。いい加減認めろ。マシンはヒトと違って正直だ。

 よって、木野瀬らくはどんぐり王国のお姫さま。


 Q.E.D.(証明終了)

 


◆木野瀬らく◆
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