続・どんぐり王国のお姫さま

あらすじ


 聖誕祭の特別な夜、京王線新宿駅のホームのベンチでポール・ギャリコの『猫語の教科書』を読んでいると、木野瀬らくが新宿ルミネの手提げ袋を揺らしながら駅の階段を降りてくるのが見えた。

 僕は紀伊國屋書店のブックカバーの端をページの途中に手挟むと、推しの様子を電車の到着まで観察することにした。僕はリスナーの鑑なので配信外で推しに話しかけたりはしないが、それはそれとして、推しの普段の生活には当然の関心があるのだ。らくさんは僕の存在に気づくことなくホームの柱に寄りかかってスマートフォンをチェックし始めた。

 らくさんは今日も僕らの思った通り――いや、それを遥かに凌駕するほど――素敵な女の子だった。キャスケットを被った髪型は低めにまとめたシニヨンで、脇から垂れた一房の髪が麦藁色のトレンチ外套のエポレットにかかっている。鞄は骨董品のロエベだった。把手と四つ角に革の疵を修復した跡があり、真鍮の金具も交換してある。年季の入った上等な革が電光掲示板の光をつやつやと反射していた。

 電車の到着を知らせるアナウンスから数分後、電車がトンネルから駅のホームに滑り込んできた。京王線新宿駅は始発とは言え客車の座席は早いもの勝ちの椅子取り合戦だ。僕は降車する客の流れが途絶えると他の乗客をのらりくらりとかわしながら首尾よく座席の一つに腰を落ち着けた。車内はたちまち足の踏み場もないほどの超満員だ。らくさんはきちんと座れたかな、と僕は車内をぐるっと見回してみた。

 しかし、らくさんの姿は忽然と消えていた。

 僕は咄嗟にお年を召したご婦人に席を譲ると、発車を知らせるベルが鳴り響く満員電車の人混みを掻き分けて命からがら降車した。

 京王線新宿駅のホームを改札に向かって歩く降車客の中にらくさんの後ろ姿はなかった。僕はリスナーの鑑なので推しがいれば絶対にわかる。

 ガランと人気の途絶えた京王線新宿駅のホームで途方に暮れていると、誰かがドタドタと階段を降りてくる足音がした。なんだか高級な足音だ。革張りの靴底に特有の甲高い音がする。随分と急いでいるらしく、足音の主は最後の何段かを飛ばしてホームの床に着地した。そして、無人のホームを見て「や!」と目を丸くした。

「しまった!」

 彼――多分、彼だ。よく似た別人でなければ――は、燕尾服の裾をバサッと翻すと、ツカツカ、と例の高級な靴音を響かせて僕の目の前に立った。そして、トップハットを少し持ち上げて丁寧にお辞儀した。

「私はフンベルト・フォン・ジッキンゲン男爵だ。卒爾ながらお尋ねするが、電車はもう行ってしまったのかな」

 僕が「ええ、ついさっき」と答えると、ジッキンゲン男爵は「なんてことだ!」と大仰な身振りで頭を抱えた。

「ぜひ読んでいただきたい手紙があったのだが」

 と、ジッキンゲン男爵――スタジオジブリのアニメ映画『耳をすませば』や『猫の恩返し』に登場するあの「男爵(バロン)」だ――は、忸怩たる思いを声に滲ませながらトップハットを被り直した。

「文句を言っても始まらない。よし、そうと決まれば!」

 男爵はバッと勢い良くホームから線路へ飛び降りると、ステッキを小脇に抱え、京王線新宿駅のトンネルの闇へと一目散に消えて行った。

 しばらくの間、僕は男爵の出自について思いを巡らせていた。フンベルト・フォン・ジッキンゲンというのはどう考えてもドイツ系の名前だが、服装はどう見てもイングランド系だ。そして、外見は八頭身の猫だった。八頭身の猫が一般的にどのような出自を持つものなのか僕にはまったく想像もつかない。あるいは、八頭身の猫がドイツ系イングランド人(猫?)であることは上流階級の間では常識なのかもしれない。

 駅員が近くにいないことを確認すると、僕はホームの柵を乗り越えて線路へ降り立った。耳をすませば男爵の靴音がトンネルの奥から聞こえてくる。僕は外套の衿を立てると京王線のトンネルの闇へ歩き出した。

 トンネルの中は非常灯もあり見通しは良好だ。普段から作業員が整備点検のために金槌で内壁をトントンと叩いて破損状況を確認して回るのだから歩くのには苦労しない。

 しばらく歩くと、トンネルの途中に急に廃墟が見えてきた。1964年から1978年まで使われていた「旧初台駅」だ。今は新宿駅の耐震補強工事の資材置き場や緊急時の避難場所として使われている。関係者以外立ち入り禁止の区域だから僕も実際に目にするのは初めてだった。トンネルの途中で急に路線図にない廃駅が幽霊か何かのように現れるというのは知らなければ心底ぞっとさせられる光景だなと思った。

 男爵の靴音は今度は上から聞こえてくる。旧駅舎に続く階段はコンクリートで封印されていたから別の出入口を探すことにした。非常灯の明かりで目を凝らすとベンチや照明が撤去されて死んだホームについ今しがたついた足跡がひとつのドアに向かって一直線に続いている。ドアをそっと押し開いて中の様子を窺うと、どこかの階段と繋がっているのが見えた。

 なんとなく奇妙な階段だ。というのは、例えばデパートの階段なら1階、2階、3階と階ごとに出入口があるのに、この階段にはいくら登ってもドアのひとつもないのだ。

 しかし、しばらく登ると階段は急に途切れて、目の前には老朽化した木枠のドアが現れた。ドアノブを捻るとガタガタと立て付けの悪さを感じる。僕は半ば体当たりするつもりで思いっきり力を入れてドアを押し開けた。

 ドアの外は、うっそうと茂る深い森だ。冬の夜空に冷たく光る月の光が複雑に絡み合った大樹の枝葉の陰から滴るように地表へこぼれ落ちている。ホウ、ホウ、とミミズクが鳴く声が遠くで聞こえた。東京都渋谷区にこんな場所があったとは驚きだ。今出たドアを振り返ると半ば倒壊した地下駅への入口が苔や蔦に覆われていた。

 僕は眠れる森の静寂を息を凝らして先へ進んだ。岩場の陰に根を張ったヒカリゴケや大樹の根本から顔を覗かせるヤコウダケがエメラルド色のほのかな光で僕の行く手を照らした。

 やがて、僕の耳朶を何かの音が打った。音楽の旋律だ、と気づくのに時間はかからなかった。ずっと先の茂みの陰から暖かな橙色の光が漏れて見える。僕は冷たく湿った下草をゆっくりと踏み締めるようにして静かに旋律と光の方へ近寄った。パチ、パチ、と薪が弾ける音。誰かが焚き火の周りで何かを演奏しているのだ。僕は背を屈めて茂みの奥をそっと垣間見た。

 猫の楽団の陽気な演奏に合わせ、らくさんが歌を口ずさみながら両手で摘んだスカートの裾を翻して踊っていた。

 楽団の中心には焚き火の炎が燃え、切り株や木の根元など思い思いの場所で酒杯を抱えた猫たちが各々の楽器をかき鳴らしている。楽団の構成は、アコーディオン、フィドル、バンジョー、フルートなど持ち運びに便利な古い楽器で、中には酔っ払ってスプーンを打ち鳴らしているやつもいた。ジッキンゲン男爵に比べ身なりは質素だが、みな、ハンチングを被ってベストを着たいっぱしの紳士という出で立ちだった。

「参ってしまったな、どうも」

 気づくと、ジッキンゲン男爵が僕の隣で複雑な表情を浮かべながら顎の毛並みを撫でていた。

「もちろん、あの場に割り込むのは簡単なことだ。しかし、彼らのささやかな楽しみを邪魔するのは紳士のやるべきことではない」

 男爵は僕に向かって今度はトップハットのふちをほんの気持ち持ち上げてみせた。

「やあ、さっきの。私はフンベルト・フォン・ジッキンゲン男爵。このジッキンゲンの森の領主だ。どんぐり議会が始まる前に是が非でも王女に手紙を届けねばならないと思って急ぎ馳せ参じたのだが、よりにもよって新宿駅で迷ってしまってね」

 僕が「どんぐり議会?」と尋ね返すと、男爵は「ふむ」と再び顎を撫でた。

「ちょうどいい。私の屋敷はすぐそこだ。彼らが疲れて眠ってしまうまで、差し支えなければ夜咄に付き合ってくれると助かるのだが」

 僕が「いいですよ」と首肯すると、男爵はジッキンゲン邸への道すがらどんぐり王国の建国史について掻い摘んだ話を聞かせてくれた。
 
「遠い昔の話さ」

 初代どんぐり王がどんぐり王国を興すにあたり、どんぐりの森のまつろわぬ獣たちを平定する任を受けた特別な獣たちがいた。王家に伝わる古い魔法で知恵を授かった彼らは無事に大任を果たし、その勲功を以て12匹が「伯爵」に300匹が「男爵」に叙せられた。

「我がジッキンゲン家も名誉ある300氏族の一つだ。とは言え、12とか300とかいうのはあとから整えられたキリのよい数字でね。実際は伯爵家はもっと多かったし、男爵家はもっと少なかった」

 その後、夷狄の侵略に端を発した「第二次どんぐり戦争」の勃発により、当時のどんぐり王は森の獣たちにさらなる叙爵を行った。と同時に、夷狄と国境を接するどんぐりの森の外縁部に最も信頼に足る獣たちを「辺境伯」として配した。

「とは言え、真実は怪しいものさ」
 男爵は人の悪い笑みを浮かべた。
「どんぐり王国の長い歴史の中で夷狄という言葉はこの時代にしか使われないんだ。辺境伯に叙せられた獣たちの定かならぬ氏素性と合わせて考えるとなかなか面白い考察が浮かぶよ。第二次どんぐり戦争が終わったあとも彼らが王国からもっとも遠い辺境に据え置かれた理由とかね」

 時代は下り、王国には議会が設立されることになる。どんぐり王の諮問機関たる「貴族院」だ。定員は100名。辺境伯と伯爵の爵位を持つ成年男子は終身議員の資格を持ち、残る議席を男爵の爵位を持つ成年男子の互選にて8年おきに決定する。その他、現在は任命委員会の推薦による勅選議員が少なからぬ数存在した。彼らは爵位ではなく見識の高さによって選ばれた学者たちだった。

「貴族院の議員は、つまり、森の代表者なんだ。私も他の議員と同様にジッキンゲンの森を代表して議会に立つ。しかし、王国は貴族だけのものではないからね。街の主役は言うまでもなく庶民だ」

 時代がさらに下ると、どんぐり王の第二の諮問機関として「庶民院」が設立された。定員は300名。どんぐり王国の全市民を候補者として4年おきに総選挙が開催される。

「庶民院の議員は、もちろん、街の代表者だ。商人たちの代表、職人たちの代表、大工たちの代表、何者でもない人たちの代表。多種多様な代表者たちが街の諸問題について各々の立場から語り合うのさ。そして、彼らは全体としては庶民の代表でもある。我々が貴族の代表なのと同じようにね」

 当然、貴族院と庶民院の利害が衝突することもある。それを執り成すのが最終的な意思決定権を持つ「どんぐり王」なのだ。

「どんぐり王は庶民院の決定を優先するのが慣例ではある――なぜかと言うと、庶民の意見は国民の意見だからだ――けれど、貴族院の意見を汲むことももちろんある。なぜなら、大衆の代表者である庶民院の政治家は政治のことなんか実際なんにもわかっちゃいないからだ。4年おきに選挙があるからどうしても目先の利益のことしか考えられないというのもある。だから、貴族院の終身議員たちが長い目で見てどんぐり王に適切な助言をするわけだな。貴族院が良識の府と呼ばれるゆえんだ」

 談話室の暖炉に泥炭の火が揺れていた。壁面の本棚には金字で刺繍が施された豪奢な背表紙の分厚い本が所狭しと並べられていたが、男爵は「こんなものは客人を驚かせるための虚仮威しだ」とそれらをひとまとめに笑い飛ばした。

 男爵は上着を脱いでカウチに掛けるとタイを寛げて煙草と酒とを僕に勧めた。僕がお礼を言ってどちらも丁重に断ると「では、今夜は健康志向といこう」と灰色猫の執事にそれらを下げさせた。僕らは全身が沈み込むほど柔らかなカウチに腰を落ち着けた。人生を取り返しがつかないほどダメにするソファという感じだった。

 「で、この手紙の話になる」

 灰色猫の執事がいつの間にか僕らの前に紅茶のセットとりんごの焼き菓子とを並べてくれていた。僕は紅茶のカップを手に男爵が懐から出した一冊の封筒を見た。ジッキンゲンの家紋で封蝋がなされていた。

「渡す相手によっては役に立つはずだ……と、甥のアルベルトが私に押しつけてきた。困った甥だが、私も親族に頼られて悪い気はしない」

 男爵はまんざらでもなさそうな顔で紅茶のカップを鼻先に近づけてまずは香りを堪能した。男爵は猫舌なのだ。それくらい僕にもわかる。

「春から夏はどんぐり議会が開催される――即ち、社交シーズンだ。王室も忙しくなる。上書も嫌気が差すほど多くなる。私としては、その前に多少なりとこのお話をお耳に入れていただきたかったのだが」

 僕が「何の話です?」と尋ねると、男爵は優雅に肩をすくめた。

「税金さ」

 男爵は慎重な手つきで紅茶のカップへ口元を近づけ――やはり、もう少し待つことにしたようだ。

「甥のアルベルトはマタタビ貿易で財を成した貿易商でね。今年もどっさりマタタビを仕入れた。しかし、風の噂によれば、庶民院の保守党の某派閥がマタタビ税の引き上げを狙っているというんだ。もし本当にマタタビ税が引き上げを食らったらアルベルトの商売は一巻の終わりだ。アルベルトに金を貸した銀行は大損だし、銀行の損を補填する保険会社も地獄を見るし……で、彼らがみんなで『マタタビ税を高くするのはよくない』という意見を上申するために私を選んだというわけなんだ。これでも良識派の議員としてそれなりに名が通っているのでね」

 僕は「閣下のお考えは?」と尋ねた。男爵は「聞きたいかね」と不敵な笑みを浮かべた。

「実はね、これは政治の皮を剥くと一人の女性を巡る二人の青年の恋の鞘当てなのだよ。女性の名前はマンハイム伯爵令嬢エルフリーデ。アルベルトの恋の相手だ。そして、エルフリーデ嬢の婚約者はダルムシュタット伯爵令息ディートリッヒ。マタタビの重税化に賛成する保守党の某派閥を率いるコルネリウスの兄だ。つまり、ディートリッヒは自分の婚約者に横恋慕するアルベルトをぶちのめすために弟のコルネリウスを使って無茶な法案を可決させようとしているのだな。実に男らしくない。対するアルベルトはああ見えて一代で財を成したやる時はやる男だ。私は断然こちらを応援するね」

 くくく、と男爵は耐え切れないという風に失笑した。

「いや、失敬。しかし、今年の社交界は始まる前からこの話題で持ち切りなんだよ。みんなどっちにつくのが面白いか考えてにやにやと人の悪い笑みを浮かべて楽しんでいるのさ。私もアルベルトには本当に申し訳ないが笑いが止まらない。なにせ、エルフリーデ嬢とは相思相愛の仲なのを当の本人だけが知らないというのだから……」

 僕が「なんというか平和ですね」というと、男爵は「もちろん」と穏やかな微笑みをたたえて首肯した。

「代々のどんぐり王は名君であらせられる」

 灰色猫の執事が「旦那様」と男爵に耳打ちした。男爵はフムフムと話を聞いたあと急に苦笑を浮かべて「客室へお通しして差し上げなさい」と答えた。そして、僕と顔を合わせて「やれやれ」と両手を広げた。

「お姫さまはおやすみのお時間だそうだ」

 僕もジッキンゲン邸をお暇することにした。男爵は「もう遅いのだから」と宿泊を勧めてくれたが、僕は丁寧に謝辞を伝えて屋敷をあとにした。

 庭園の綺麗に刈り込まれた芝生に敷かれた道の途中からジッキンゲン邸を振り返ると、二階の客室の燭台に火が灯るのが見えた。僕がなおも客室の灯を見ていると、不意に窓が開いてらくさんが顔を見せた。らくさんはレースとフリルが一杯のナイトドレスに着替えて両手に温かな飲み物の入った大きめのティーカップを抱えていた。トレードマークの丸眼鏡はなく、その代わりナイトキャップを頭に被っていた。

「やっぱりどんぐり王国のお姫さまなんだよなあ」

 僕が「そうでしょう」という感じでジッキンゲン邸の玄関へ視線をやると、玄関先から僕を見送る男爵も「そうだとも」という感じで頷いた。もう言い逃れの余地はない。バロンだってああ言っている。バロンが嘘を吐くはずはない。
  
 よって、木野瀬らくはどんぐり王国のお姫さま。


 Q.E.D.(証明終了) 

 


◆木野瀬らく◆
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