見出し画像

走馬灯の前撮りをする【編集後記】

 走馬灯のようなものを実際に見たことがある人はいるだろうかって、いねーか、ハハ…。一般的に走馬灯のようなものというのは、死の直前か、危うく死にかけたとき、または死線をさまよったときなどに、脳裏に浮かぶとされている。死の存在がすぐ傍にまで来たとき、今までの人生の様々なシーンをおさらいするかのように、映写機のフィルムがくるくると回るらしい。
 この現象を、私は「生への執着」だと考えている。人間は本能的に「死」を恐れる。その死という存在がすぐ隣に立った時、私たちはただ強く「生きたい」と願うのだ。思い出されるは鮮やかな生の記憶。生と死は表裏一体であり、また対立する概念である。やはり私たちは生きていたいんだよな。

「走馬灯、見てみたいな。」

 閃いてからは早かった。私だって走馬灯を見てみたい。そのためにはどうしたらいいか、私は考えた。たとえば、故意に死に近づいて走馬灯を見るというパワープレイも考えてみたが、そんな豪胆なこと私には到底できない。そこでたどり着いた結論が、「走馬灯に映写されるであろうシーンを自ら撮影し、私が生前に選べばいい」ということだった。最近よく「終活」という言葉を耳にするようになったが、これはその一環であると思う。いつどこで死ぬかわからないこの世界、ライバルに差をつけるためにも、前持って前持って準備を重ねていくのは大事なことだ。
 
 そもそもまず、私が見る走馬灯にはどんなシーンが映写されるのだろうか。というのも、私はまだこの世に生を受けて20数年しか経っていない。喜怒哀楽、受験恋愛青春、人並みぐらいにはいろんなシーンを見てきたが、それでもまだまだ人生経験が浅いと感じる。社会人生活を生き抜き、所帯を持ち家族を養い、立派に会社を勤め上げて定年を迎えた方などには経験値が遠く及ばない。
 そこで、若輩者の私ができることといえば、走馬灯になりそうなシーンを予め撮影しておき、撮り溜めることで、いざというときでも安定した上映時間の走馬灯を見られるようにしておく、ということだ。
 これを私は、走馬灯のリハーサル、走馬灯の前撮り、と命名した。
 

-

 身近な生活圏内での風景が果たして、走馬灯に食い込むほど感傷的なシーンになり得ることがあるだろうか。友人と考えた結果、旅先での風景を撮るのが一番いいだろう、ということになった。
 感動を覚える風景というのは、やはり近所には転がっていない。ここではないどこか、遠い異国の地、このレールの先、あの海峡の向こう。壮大な風景には、確かに生を渇望させる何かがあるのだ。

-

 人生のクライマックス、エンドロールは少しでも長く。



#行った国行ってみたい国

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 500
期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?