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煙草が吸えない私の純喫茶についての陳腐かつ軽薄な私見

 カフェ巡りを堂々と趣味に掲げる男をむやみに信じてはいけない。それはマッチングアプリでいうところのいわゆる"地雷"である。つまらない男の『3C』という言葉があるように、カフェ、カレー、カメラ、この3つのCを趣味に掲げる男は信用してはいけない。ソイツらと運悪くマッチングしたのならば、即座に流行りのカフェのテラス席に連れていかれ、ネットニュースの3倍焼き増しのような与太話を嬉々として垂れ流した後、不可解なタイミングで性欲をむきだしてくる習性があるからだ。気をつけろ!

 その点、「純喫茶巡りが趣味の男」、これは大いに信用に足る。ドラマの脇役として出てくる遠藤憲一や松重豊、光石研くらい信用出来る。これは紛れもない事実だ。その上、その男が喫煙者なら、私からもう何も言うことは無い。

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 平成生まれの若者たちの間で、にわかに純喫茶ブームがやって来ている。独創的なスパイスカレーを出すオシャレな木目調のカフェや、こだわりの強いシンプルで無骨なコーヒースタンド、それらの若者のメインストリームのトレンドに対する、いわば第3勢力として私が認識しているのが、この『純喫茶』。

 昭和と平成を生き抜いてきた純喫茶の醸し出す風格は、そこらのペーペーの新参カフェには決して真似をすることはできない。昭和という時代を知らない若者がその風格に魅了されるのも無理ないと思う。純喫茶を評するにあたって、ここでは料理の味とか、接客態度とか、飲食店としての質とか、そういうことが評価要素にはならない。ホンモノが纏う"雰囲気"や"佇まい"というのは、いくら最新の技術を使ってでも、そのように取り繕うことはできないのだ。

 昭和の文化を現代にリバイバルさせる風潮はここ最近よく見かける。80年代のシティポップや古着の再流行などに続いて、純喫茶を始めとしたレトロ文化の興隆も、そのひとつだ。

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 若者がなぜレトロなものに憧れるのか。私個人の見解としては、それは『自分が經驗したことのない文化だから』ということに尽きる。

 平成生まれの若者からしてみれば、昭和という時代はいわゆるロストジェネレーションにあたる。今よりも日本全体が輝いて希望に満ちていた時代と、つまらない今の時代とを天秤にかけることで、平成生まれの若者は令和のその先の世代に希望を見い出せなくなっている。幼児退行のようなものだ、私たちは次第にこの時代への展望を止め、ついには時代を逆行し始める。行く先は、今は無き、昭和。

 失われた時代、もう決してやってこない輝かしい時代、そんな時代の中で誕生したものを、私たちはどうしても、どうしようもなく愛してしまうのだ。

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 簡単にレトロと言うが、『レトロ』というのは本来、あまり明確にさせてはいけない感覚・概念だと思う。レトロをあまりに”かっちり”とした言葉で正確に表現しようとしすぎると、どうしてもチープでチグハグな感じになってしまう。というのも、人それぞれでレトロというものの概念を線引きする境界や基準は曖昧であり、それこそ若者と中年世代の間でも見方は大いに異なる。双方がなんとなく抱いているレトロの概念を無理くり擦り合わせて確立させようとすると、レトロ感という言葉が持つ特有の醍醐味や不安定感が薄れてしまい、レトロ最大の武器であるノスタルジーの要素が儚くも消えてしまう。レトロというのは淡くほろ苦い。

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  昨今の洒落たカフェの様相とは真逆を行く純喫茶は、ゆえにそのヴィジュアルが若者にウケたのだろう。そのレトロチックな振る舞いが"逆に"映えるとして若者カルチャーのひとつに成った。けして時代に迎合しない、という純喫茶のスタンスにはもはや畏敬の念さえ抱く。たとえば店の看板のフォントや窓の形、インテリアの椅子や日焼けしたポスターにマッチ箱、コーヒーカップやカトラリーひとつとっても、とても令和の時代にはそぐわない。それらは"文化のオーパーツ"のようなもので、そのオーパーツたちを多く内包した純喫茶はさしあたり、古代遺跡のようなものと言ってもいいかもしれない。

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 以前に私は、純喫茶を船に喩えて書いたことがある。流行りには迎合しない姿勢を取りながらも、それと同時に、去る者は追わず来る者は拒まずの純喫茶のこのスタンス、私はそれを、凪をゆらゆらと漂う船のようだと思ったのだ。日々の人間関係の濃密さに疲労しきった私たちは、ある種ドライともいえるこのスタンスが持つ反面的な優しさに寄り添ってしまうのかもしれない。

 純喫茶に入店すると、そこには"店"という感じではなく、"家"という印象を抱くことが多い(家なのか船なのか紛らわしい)。
 ひとりの店主が切り盛りする店という認識ではなく、家主のお家にお邪魔する、そういう感覚。まるで実家のようにくつろぐ常連も、壁にかかったテレビから流れる番組も、キッチンに鎮座するくすんだ冷蔵庫も、それぞれが"家"らしさを醸し出すいぶし銀の役者になっている。店主改め、家主もとやかく言わない。なんなら寝ていることもあるが、それでいい。懇切なサービスが行き届きすぎているお店はむしろ息苦しく感じることさえあるからだ。過剰サービスという言葉があるように、それは、人間関係という檻の中でがんじがらめになっている若者特有の生臭い感性なのかもしれない。

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 あまりに純喫茶について詳細に話しすぎると、かえってダサい。平成生まれの若者風情が純喫茶について知ったような口を利くなという話だ。だが、知ったような"顔"はしていていい。それに1本のタバコすらも吸えない私だが、テーブルの上に灰皿が置いてあるとなんだか嬉しい。今にもタバコに火をつけそうな神妙な顔をしていろ。その心づもりだけで十分、私もあなたも純喫茶を楽しめているはず。

 こんなことを言っている間に、注文したホットコーヒーが冷めてしまった。心の片隅にある一片の気まずさのような、カップの底にどろっと溜まったぬるい液体を、私は一息で飲み干し、店を出た。

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