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ぼくたちの「死にたい」


今から書くnoteは、私が記すnoteの中で後にも先にもないくらい無責任で、身勝手で、傲慢なnoteです。





2022年、あまりいいことでは無いけれど他人の「しにたい」にたくさん触れる機会があって、今まで「しにたい」を考えることがなかった自分にはある意味気付きの多い期間があって。



これからnoteに記すことは「みんながみんなこう!」って訳でもないし、そう言いたいつもりじゃなくて、ただ「私が出会った『しにたい』について考える」だけのnoteです。



1.エネルギーとしての「しにたい」


これは、もしかしたら言ったことある人も居るかもしれないし、口癖みたいになってる人も居るかもしれない。


エネルギーとしての「しにたい」は、「しにたい」と口にすることで気力を起こしたり、メンタルを保ったりするための「しにたい」。
だから、ほんとにしにたい訳じゃないし、すごく重たく発言してる訳でもない。


例文を作ってみると、
「あーテストむりしにたい」
「あーメイク上手くいかんかったしぬ」
「体重増えてんじゃんしにたい」
みたいな感じ。伝わって!


そう言ったあとに友達とプリ撮りにいったりするし、コンビニでアイス買ったりするし、ちゃんと次の日のテス勉するし、本当にしぬ気なんてあんまりない。


でも、「あーしにたいしにたい」って口にすることで、なんだか気が楽になる。
「しにたい」を垂れ流す、という表現がいいかもね。


口から脱力していくように、溜まった重たさを吐き出すように言う「しにたい」。



これが私の思う1つ目。



2.生きたい「しにたい」


これを2022年は1番多く、近くで見たように思う。
私は当事者じゃないけど、当事者と密接に関わる中で私が受け取った部分にはなるんだけど。



「しにたい」と思って、口にして、実際にしぬための行動を起こすんだけど、「生きたいけどうまくいかないからしにたい」の、「しにたい」。


「死」が1番に来るというよりも、「こんなんで生きたくない」が1番に来るって言ったらいいのかしら。



例えば
「現状から逃げるためにしにたい」
「楽になりたいからしにたい」
「思ったようにいかなくてしにたい」
「誰にも相手をして貰えないからしにたい」
みたいな。



本当はたのしく幸せに生きれるものなら生きたいと思うのだけど、うまくいかなくて苦しくて、それならもう生きるの辞める、という感じ。


これはさっきのとは違って、本当にしぬための行動を起こす人がより多くなる。

本当にしんでしまうかどうかは別として(というかここに2段階ほどあるのかもしれないが)、高い所へ行ってみたり、ホームで線路を見下ろしてみたり、ロープを手に取ったり、たくさん薬をのんだり。



でも、この「しにたい」は、「しぬこと」が目的ではないんじゃないかっていうのをすごく心から思ったんだけど、どうなんだろう。
すごく傲慢なことかもしれないけれど許して欲しい。



しぬことって、「=生きるのをやめること」、つまり「生活をやめること」なんだけど、この場合はそれが目的なんじゃないと思っていて、



しんで「楽になること」、「現状を打開すること」、「周りの人に目を向けてもらうこと」、「SOSを聴いてもらうこと」のように、「しぬこと」そのものが目的ではなく「手段」の場合なんじゃないかなって思った。



私がすごく近くで見た「しにたい」も、よくよく話をきくとしぬことが目的じゃなくて手段だったし、「しんで○○したい(させたい)」が大きかったように感じた。


でも、「しにたい」が嘘なんじゃない。
ここが1番大切なところ。

本気で死にたいんだけど、死にたくない。
死にたい気持ちも本当だし、でも生きたい気持ちがゼロなんじゃない。きっとそう。
だから「どうせ死なない」と言いきれなかったりするし、本人もつらかったりするだろうなと思う。


ただ、この「しにたい」は、本人がすっごくすっごく苦しくて、周りもすっごくすっごく苦しい。


「しにたい」に気づいていても、隣にいても、楽にしてあげられない苦しさがあったりする。


私が今いちばん考えなきゃいけないなと思っているのは、この「しにたい」です。




これが2つ目。


3.「死にたい」


これが1と2と大きく違うところは、「死」というものが目的であるということ。



死を目的とする人間なんて居やしないかもしれないけれど、そう思いたいけれど、私はそんなことないと思う。



段階として1や2を通過したかもしれない。
けど結果的に「死」が全ての目的となり、希望となり、ゴールとなった時、もうどんな言葉も水みたいに流れていってしまうのかも。


もうもはや「死にたい」とすら思わないかもしれないね。
体が勝手に楽な方へ動くのかもしれない。
ここまで追い詰められた人間のことは、ここまで追い詰められた本人にしか語れないし、解らないし、考えられないと思う。



だからこうやって挙げつつ、私はこれ以上何も言えない。





ぼくたちの「しにたい」


よくニュースで人身事故だったりというものを目にする機会があって、その度に色んな人の色んな意見があがる。


痛ましく思う人、危機感を覚える人、興味がない人、死ぬなら勝手に1人で死んでしまえと思う人、ほんとうに色々いる。
みなさんはどう思う人ですか?


私はどの意見も否定はしないし、そういう色んな意見があって当たり前だと思う。
でも、こういうニュースがある度に「あの人の『しにたい』はどういう『しにたい』だったんだろう」と必ず思う。


思ったところで分かるはずがないし、死んでしまいたかったのか、ほんとうは助けて欲しくて引き止めて欲しかったのか知る由もない。
こうやって考える私を、余裕がある人間の、恵まれた人間の時間潰しに他人の死を使うなって、そういう風に見えるかも。



例えば1や2のように、「しにたい」が手段になって居るのなら、目的を達成出来る他の手段があれば助けられるだろうか。



もしかしたら1や2の「しにたい」は、代わりになるものがあるのかもしれない。



でも、無いかもしれない。
「しにたい」と思う前に、代わりになるものか見つかれば、目的を達成出来るなにかがあればいいのだけれど、それは私の理想論です。


そもそも「助ける」「引き止める」って、すごく無責任な事なんじゃないか?

どれだけ重く、大変で、無責任なことなのか、私たちが軽く議論したところで答えは出ないように思う。


「しなないで」と言うことは簡単だし、「生きてれば良いことがある」と言うことも簡単だけど、本当にそうかな?


しにたいと思う人に「しなないで」と言うことは、本当にその人の幸せになるのかな?



私は「しなないで」と言ったとしても、その人の人生をまるまる請け負えないし、養えないし、好きに生きさせてあげられない。

私の「しなないで」には、責任がない。



責任なんか無くても「しなないで」と言うことに意味がある、という人も居るだろうし、責任云々ではなく気持ちが大事だって人も居るだろうし、責任のない「しなないで」なんて空っぽだって言う人も居るだろうね。



「しにたい」ということの中に、「生きたい」「逃げたい」「甘えたい」「死にたい」「生かしてほしい」があるし、「しにたい」について考えることって、例え私が無縁でも、無責任でも、無関係でも、やっておきたいと思ってやりました。



このnoteで何か伝えたいとかじゃないし、こうするべきだ!と言いたいんじゃなくて、ただ、「しにたい」について考える、ということを提起する為のものでした。





おわり。このnoteを読んでくれたあなた、あたたかくして過ごしてね。

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