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リンゴ神父が強制収容所で育てた木


      クリーム色の地にほんの少し赤味がさした果皮のリンゴにつけられた名は「コルビニアン」。リンゴ神父と呼ばれたコルビニアン・アイグナー神父(1885ー1966)が第二次世界大戦中に収容先のダッハウ強制収容所で種から育て、終戦直前に持ち出したとされる木が親木のリンゴだ。このリンゴを生み出したリンゴ神父について知りたくて彼の足跡を辿る旅に出た。


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◎ヒトラー暗殺未遂事件が逮捕のきっかけに

 アイグナー神父の物語は、ミュンヘン市中央部のガスタイクで起きたある事件から始まる。ナチス政権がドイツを掌握していた1930年代、ここにはビュルガーブロイケラー(Buergerbraeukeller)と呼ばれるビヤホールがあり、毎年ヒトラーが演説を行うのが恒例行事だった。1939年11月8日も演説を聴くために2000人を超える聴衆が集まる中、この年はヒトラーが予定よりも演説を短く切り上げてホールを去ったのだった。そしてその13分後に爆発が発生。家具職人、ゲオルク・エルザー(1903-1945ダッハウ収容所で死亡)が企てたヒトラー暗殺は未遂に終わった。

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  アイグナー神父が逮捕されたのは、小学校の宗教の時間に子供たちに聖書の「汝殺すなかれ」という教えを説く中でこの暗殺未遂事件に触れたのが原因だった。「暗殺者が企図したことが果たして罪にあたるのか分からない。もしかしたら数百万人の命を救うことができたのかもしれないのだから」。ため息にも似たような授業での発言を補助教員に聞きとがめられ、当局に密告された。
  それ以前にも、ナチスの象徴である鉤十字(ハーケンクロイツ)の旗を掲げるのを拒否したり、ヒトラーのためにと要請された教会の鐘を鳴らさなかったことで罰金刑に処されたりと公安当局ににらまれており、告発されたことが彼にとって致命傷となったようだ。 

◎ダッハウ強制収容所跡へ

  1940年8月に逮捕され、7カ月間投獄された後、ザクセンハウゼン強制収容所を経てアイグナー神父が送られた先はダッハウ強制収容所。第2次大戦中、約3万2千人の犠牲を出したこの強制収容所は1933年にナチス政権が初めて建設したもので、後に作られるアウシュヴィッツをはじめ、他の強制収容所のモデルとなったと言われている。今は強制収容所の記録を残し、平和を祈念する場所として無料公開されている。
   世界各地から訪れる観光客とともにダッハウ駅からバスで20分ほど揺られて収容所跡に着いた。入り口から細い道を通っていくと「Arbeit macht frei」(労働は自由を与えてくれる)とのスローガンがはめこまれた黒い鉄製の扉が待ち受けていた。どんな気持ちで収容される人達はこの言葉を読み、扉をくぐったことだろうー。中に入ると周りを囲む高い塀と鉄条網。ところどころに立つ、監視塔は今も圧迫感を放ったままだった。

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    キッチンやシャワー室(ナチス親衛隊(SS)による拷問の場所でもあった)などが入っていた建物跡は資料館になっている。ここの展示を通じて訪問者にはナチス政権が批判者を政治思想犯として断罪し、捕えていくことからスタートして残虐な行為がどんどんエスカレートしていった様子が見せられる。始めはほんの些細なことのように見えるけど、放っておくと悪は巨大化していくんだよ-そんな警鐘を鳴らしているのだ。

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   ここに収容されていた一人一人の姿が写真と説明で、心の中にくっきりと浮かびあがってくる。そして彼らに与えられた運命を思うとまた胸が詰まってくる。ユダヤ人だけではない。同性愛者や身体、精神障碍(がい)者も収容所に送られた。そしてダッハウはオランダ、フランス、ポーランドなどからのカトリックの神父が政治思想犯として集められる場所でもあった。
    この旅の主人公、アイグナー神父もその中の一人。神学生のころからナシとリンゴの果樹栽培に興味を持ち、故郷のホーエンポルディングに果樹協会を結成したり、栽培農家に向けて講演など意欲的に活動していた。あまりの熱心さに神学を修めたフライジング大学の卒業証書には「神学者というより果樹園芸学者である」と書かれたほどだった。聖職者になった後も、果樹栽培への研究と普及活動への熱の入れようは変わらなかったようだ。リンゴ神父と呼ばれたゆえんである。
    顔写真で見る神父は眉毛のくっきりした意志の強そうな表情が印象的だ。頑固、いや俗に偏屈と呼ばれるような人だったのかもしれないなと勝手に想像してみる。彼が逮捕されるきっかけとなった告発文、そして戦後に果たされた名誉回復の文面も展示されている。

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 さて彼は収容所のどこで時を過ごしたのだろう。資料館の外に出て収容者たちの情報交換の場であったポプラ並木を歩いた。その両側に、収容者が押し込まれたバラック跡を示す数字が刻まれた石が並んでいる。一番端の26と28が聖職者専用。つまりここがリンゴ神父の生活の拠点だったのか。数字の上をゆっくりと手でなぞった。

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    ローマ法王のとりなしで、バラック内の一室でミサを執り行うことが許されたりと、ドイツ人の神父には多少の優遇措置がされていたらしい。だが捕らわれの身であることに変わりはなく、聖職者にも当然のごとく強制労働が課されていた。

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◎リンゴを育てたプランテーション

  聖職者の労働の場は収容所の敷地に隣接する、通称「プランテーション」、または「ハーブ園(Kraeutergarten)」と呼ばれた場所。総面積148haの湿地帯をユダヤ人の強制労働によって水抜きし、植物の研究やバイオダイナミック農法の実験場とする計画がこの地でスタートしたのは1938年のこと。ナチスはここで、薬剤やビタミンC、香辛料を外国から輸入しなくてもすむよう代用品の開発研究を進めようとした。「ドイツの胡椒」となるべく栽培されたのはタイムやペパーミント、バジルにオレガノ、パプリカにセイボリー。ビタミンC源の研究用にグラジオラス、プリムラなどの花も育てられていたという。
   戦後、1954年にダッハウ市の所有地となって敷地の大半がビジネスパークになるなど様変わりしたものの、かつての管理棟や研究所などの建物が残るサッカー場くらいの広さの一帯は当時の面影を残したままだ。骨組みがボロボロに老朽化した背の低い温室。周りには野草がぼうぼう生え、コンクリートの基礎が草陰に見え隠れしている。

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 またここではSS要員の食糧自給策として野菜も栽培されていた。余ったものを近隣住民に売る販売所もあり、販売所を通じて神父たちには差し入れも許されていた。アイグナー神父の下には教区のホーエンベルヒャの信者からリンゴの品種鑑定を依頼する名目でリンゴや種が届けられた。
   そうして、神父は手に入れたリンゴの種をまき、育った4本の幼木に強制収容所(Konzentrationslager)の略称であるKZと1-4の番号を合わせた名前を与えた。収容所のバラックの間に種を蒔いて育てたという伝説のような定説があるが、状況からしてプランテーション内で監視の目を盗んでリンゴを育てたと考えるのが妥当だと思う。ナチスのためでなく、自分の種を蒔いて芽生えを待つ-。その行為は異常な時間と空間での自らを支えるよりどころになっていたのではないだろうか。

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 その後アイグナー神父はドイツの敗戦色が濃くなった1945年4月、連合軍の侵攻を恐れたナチス政権が収容者をチロル山中に隠そうと死の強行軍を決行した途中で逃亡に成功し、ホーエンベルヒャに戻った。育てたリンゴの幼木をどのように外に持ち出したのかの経緯は明らかになっていないが、最終的にKZ3と名付けられた木だけが残った。

◎各地で育つコルビニアンのリンゴ

   強制収容所での日々についてあまり語ることはなく、庭仕事の際には収容所で着せられた青と白のシマの囚人用の上着をまとって作業していたという神父。今はホーエンベルヒャの教会の墓地に眠っている。

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    生誕100年記念としてKZ3は1985年に「コルビニアンのリンゴ」(Korbiniansapfel)と正式に改名された。そして挿し木で増やされた木は各地に平和のシンボルとして植えられるよう。実はコルビニアンのリンゴは新しい品種とされていたのだが近年、DNA鑑定によって現存するものを調べたところ、北ドイツから古くにある他の品種と同じであることが判明した。どこで取り違えが起きたのか、そして本物のコルビニアンのリンゴの行方は分かっていない。
    だが、コルビニアンのリンゴと名のついた木を前にするとそれが新品種かどうかなんてどうでもよくなってくる。彼が品種鑑定用に描いた約1000点ものリンゴ(とナシ)の絵を見るとその気持ちはさらに強くなる。

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  コルビニアンのリンゴに託されたものー。それはリンゴをこよなく愛した彼のような「普通の」人までもが巻き込まれていったあの狂気の時代を繰り返させてはならない。それが今を、そしてこれからを生きる私たちに残されたメッセージなのだから。


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