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That's what I wanna say to you.

 『海外に飛び出すんだ』『アメリカに行くんだ』
 『アメリカの大学に行くんだ』『起業するんだ』

 高校卒業した当時のオレはこう考えていた。しかし、現在、海外2か国滞在を経験し、日本へ一時帰国し、京都で働いている。高校卒業した当初の考えと現在の考えは全くをもって変わり、社会に対する見方もかなり変わったように日々感じる。大学に行きたい気持ちが完全に消滅したかと言われれば、決してそうではない。実際に欧米諸国、アジア各国、世界中の大学検索サイトで自分の今の実力から行くことのできる、射程圏内の大学を探していたが、条件が合わなかったり、出願してもキャリア負けして、奨学金をもらえなかったり、あと一歩のところで大学進学には届かない。21歳になった今、大学進学には縁がない事をようやくしみじみと感じ始めている。悔しい。自分の実力があったら。莫大な資金がオレにあったら。そんな理想論を考えたとしても現実は変わらない。

 でも、なぜか今まで出会ってきた方々、友達、家族はこんな無謀なオレの人生に対して応援してくれている。最近、帰りの電車の中で考える。『なんで応援してくれるんだ』って。決して何も成し遂げていない、むしろ理想論や自分の哲学、美学しか語らないオレを。それはオーストラリアやフィリピンで出会った方々もオレの動向を常に気にしてくれている。頻繁に連絡もくれる。なんて幸せなんだ。オレの人生、素晴らしいパーソナリティを持った人たちがオレの周りを囲んでくれている。でもこれでいいんじゃないか。周りに素敵な人たちがいるだけでいいんじゃないか。そう考えていたが、やっぱり自分が出した答えは【挑戦したい】なんだ。

 グローバル社会、グローバルでより活躍する人間になるためには、やはりキレイごとだけではなくて、色々な理不尽な理由で社会的に力を持つことができない立ち位置の人たちのことも頭の片隅にでも置いておかないといけない。世界にはまだまだそんな人たちで溢れている。比較することは失礼だが、どうだ?日本人として生まれたこと。どうだ?色んな選択ができる環境下は。最高だよな。言うことなしだよな。一度、立ち止まって考えてみるとどうだろう?オレにとっての苦しい経験はポジティブで贅沢すぎるよな。オレはフィリピンの小さな田舎町に実際に赴いた際に、色んな事をフラッシュバックさせられるくらい考えさせられた。おれの悩みなんてちっぽけだよなって。だからオレはそんな土地に自ら飛び込んで、より現地の人々とともに手を取り合いながら成長したい。そう考えるようになった。



【より成長するために】

 オレは幸せなことに、家族のおかげで、普通に生きていたらすることのないような、経験をさせてもらっている。振り返ると、小学校卒業目前、母親から私立の中学校に行くことを勧められ、時に身を任せながら生きていると、中学受験に合格し、小学校の友達と離れなければいけない状況に勝手に、半強制的に陥っていた。当時のオレにとっての友達(小学校を通じてできた友達、サッカーを通じて仲良くなった友達)は自分の中では大きな存在だった。それを親から勝手に許可もなく取り上げられたような心情だった。今でも鮮明に覚えている。卒業式で仲の良い友達が泣いていた。でもなんで泣くんだって。中学校も同じじゃないかって。オレはみんなに何も言わずに離れていく気持ちが辛くてしかたなかった。さらに、先生、親からも進路のことについては口を慎むように言われていたため、おそらく大半の友達は中学校の入学式にオレが出席していなかったことから気づいたはず。

 中学校に入学すると、周りは知らない人間で溢れていて、育ちが違う人たちで溢れていて、何も合わなかったことを覚えている。そして、スマートフォンの普及に応じて、スマートフォンを持ち始めたが、地元の友達が遊んでいる投稿を見るのが当時のオレはすごくしんどかった。現実を受け止めきれないこともあった。サッカーも勉強も上手くいかず、何もかも自分が小学校の時に想像したものではなかった。しかし、中学校1年生の後半から、割り切ることができて、勉強もサッカーも卒業まで好調を維持できた。それは、小学校の時までのオレは、周りの大人、同級生の力を直接借りて、頼りにして生きていたが、中学校ではそうではなかった。自分の力で解決しないといけなかったからだ。

 中高一貫、学業も充実していて、サッカーも当時、高等部は全国3位になった実績があり、そのままエスカレートしても環境は揃っていたし、先生と生徒との関係性は3年間あり、外部から高校に入ってくる人たちよりアドバンテージがある環境だったが、より自分の道を進みたいことから、府外の高校に行くことを志すことになる。中高一貫で、勉強ではなく、スポーツをもっとしたいという単なる理由で府外の高校に行きたいことを各先生に伝えたところ、全員から否定の言葉を並べられ、授業中でも態度や部活動での態度が激変され、書類の記載も前向きに関わってくれなかったが、オレはそのような経験を通じて、より一層、精神的に強くなったと感じている。そんな半面、今でも頻繁に会ってくれて熱い話をしてくれる素敵な友達も手に入れることができた。

 中学校を卒業した後、高校の入学式の前に入寮し、親元を離れ、人生で初めて、家族以外の人たちと生活をした。今の時代でも、当時でも考えられないくらいの縦社会に苦しみ、初めて先輩との関わり方、学年が上がるにつれて、後輩との距離感を肌感覚で学べたが、度重なるケガ、特に最終学年になった年は選手の評価基準、新型コロナウイルス、選手と指導者の関係性。色々な障壁に悩まされ、何度も考えさせられ、最終的には心臓に病を抱えてしまった。そのまま高校に上がってれば。勉強で進学校に行ってれば、実家から普通に高校生活を通っていたなら。色々な後悔もした。その分、この場所でも自分の一生を賭けても誇ることのできる新しい家族ができた。

 3年生の春から夏にかけて、周りの同級生は進路が決まっていたが、当初から海外に進出したい思いもあったため、色んな葛藤をしながら受験するも受かることなく、お金を溶かしまくり、最終的に一般受験までもつれ込むも、最後は海外に行く決断をすることとなった。

 卒業して海外(アメリカの大学)に行くことを志すが、英語のテストを受けないといけない。ハードルは高い。親も厳しかったため、ほぼ毎日働きながら、睡眠時間を毎日削って、身体も同時に痛みつけながら、勉強と両立していたが、ほぼゼロからのスタートだったがために、自分の欲しい結果は簡単に手に入ることはなく、同時に、同級生に会って、ごはんに行くと、大学の話。ついていけない、自分のアイデンティティを置く場所もない、だが、周りの友達は大学という保証されたテリトリーに帰ることができる、でもオレのほうが勉強してるし、間違いなく、学力的にも、社会的にも賢いって。そんなジレンマと1年と半年間死闘し続けた。その後規定のスコアを取ることに成功してアメリカの大学への進学(奨学金あり)を勝ち取るが、急遽心臓の病気でスパイクを履くことをやめさせられ、条件付きの入学だったため、諦めざるをえなかった。なんで、なんで、なんで。その頃、周りの同級生は2回生になっていて、より充実した学生生活を送っていた。あの時、意地でも親を説得して、指定校推薦で大学に行ってたらもっとオレの未来は明るかったんだなって。彼女だって、バイトだって、キャンパスライフだって充実してただろうに自らその権限を捨てたことを何回も恨んだことを今でも鮮明に覚えている。


 このように海外に行くまでの自分の人生を改めて文字に起こして振り返ると、嬉しかった記憶より、しんどかったり、記憶のほうが断然インパクトは強くて、量的にも断然多くて、よくあの時やってこれたなって思えることが圧倒的に多い。でもおそらく、同級生と比べると(勝手に比べることではないが)、普通ではできないような経験をさせてもらい、その分成長し、大成してきたように思える。なぜ、自分がこのような成長を遂げることができたのか。それは【等価交換の関係】であると思っている。

 小学校卒業後、誰も知る人のいなかった私立の中学校に行ったから、
中学校卒業後、築きあげた関係を捨てて府外に飛ぶこんだから、
高校卒業後、大学という道に進まずに
自分の力だけで海外に行くことができたから、

【成長】できたのかなって感じる。


つまり

捨てたものと同じ価値の物を手に入れることができる。
色んなもの、ことを犠牲にしてきたから、
ここまで来ることができたんかなって。
なんでもかんでも捨てればいいわけではないけど、

自分の【成長】にもっとワガママに。
もっと自分のなりたい姿に。
もっと自分のなりたい理想像に近づくために。

大事なものを捨ててでも掴み取りにいかないといけない
使命があるはず。



【自分の目指す場所】

 こんなことばっか言っていると、最近色んな人に問われることがある。

『お前はじゅあ結局何がしたいんや』
って。

 言い訳でもなんでもないが(言い訳やと思っていただいても結構です。)、
明確で具体的な目標を持つことがあまり効果的に働かないように感じていて、もちろん【起業】して、【代表】になって、【上場】させてみたい。

でも

 フィリピンという発展途上の国に赴いて、色々な経験をさせてもらって、日本に帰国した時に重要なことに気づくことができた。それは、今まで欧米諸国の大学に自分の実力で全額奨学金を勝ち得て行きたかったことも、起業したかったことも全て、当時はそうではなかったが、今振り返ると、自己満にしか過ぎない。起業しようとしている人たちが、果たして偉いのか。就職するからってその人たちが全員夢がなくてただ単に就職する人たちなのか。決してそんなことはなくて、その人なりの美学とか哲学がそこにはあって、就職しても自分の夢を追いかけている人だっているし、起業しても、不適切なサービスを提供している人だっている。両サイドの良し悪しを見てもキリがないが、結局自分のできることでどれだけ困っている人を助けることができるか、この気持ちがあって、実際に行動して、初めて【働く】【起業】だと思う。誰かのために【働く】ことを通じて、より素晴らしい方法で困っている方々に手を差し伸べることができるから【起業】に繋がるんだと。その根本がないままに当時は理想論や自分のただの欲望や名誉獲得のためだけにそのようなことを言い張っていたように感じる。ただ夢を追い続けているように周りの人たちの目には見えて、たまたま運良く、応援してもらっていただけで、本当に周りの人たちに助けてもらってただけであった。

だから明確なロードマップじゃなくて、
まずは【魅力的な人間】になること。
自分を知らない方々の目から見ても、
『あの人って素敵』
『あの人についていきたい』って
思ってもらえるようになることが


今、自分の目指すべき場所で目指す場所である。
それを達成してようやくロードマップ作成。
まずは
『魅力で溢れる人になること』



 【最後に】

 上記にも書いた通り、【起業】=自分のしたいコト。【就職】=じぶんのしたくないこと、半強制的にしないといけないこと。では決してなくて、自分のライフスタイルを自分なりに表現できる道に進むことが何より優先すべきで、自分のやりたいことをもみ消してまで【就職】【起業】することは誰に対しても幸せがないように感じる。『東南アジア』に行って滞在して誰かのために働くことがオレの今の一番大きな幸せで、なおかつそれが自分のライフスタイルで自分なりに自分のしたいコトを表現できると確信したため、現在どうにかして、ビザの発行をサポートしていただける環境を探している最中で、それを探すことでさえも自分のアイデンティティを日々強く感じることができる。『自分のやりたいことは何か?』『自分の生き方は何か?』『自分なりの表現の仕方はどんな表現の仕方なのか?』『誰を助けることができるのか?』など、色々な観点から物事を俯瞰して見ると、自分自身を客観視することができて、いろんな角度から客観視して見えた自分が、【本当の自分】だと感じる。その道中で犠牲にすることもあると思うが、捨てた分だけ自分に目には見えない形となって返ってきて、より『魅力で溢れる人』になることができたらいいんじゃないか。冒頭にも説明した通り、世界には、生まれる場所がただ違うだけで苦しい生活をすること強いられる子だって山ほどいるし、でも、俺たち日本人は最低限自分のしたいコトは自分で作り出し、できる環境下にあるんだから、そういう子たちの分も含めて表現しよう。【挑戦すること→誰かを助けること】に繋げれるように。そして将来、困っている誰かに進んで手を差し伸べよう。最終的にこの自分が住んでいる地域が、この日本が、世界が平和で多くの人たちが笑顔で幸せで溢れますように。

大好きな人たちのホームタウン🤍


Sorata

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