物語・暴力・愉悦

なんというか私は、うまい物語を仕上げたとき、その強引さ、暴力を感じつつ、しかしそこに底知れぬ愉悦を感じもする。このことが毒もみが好きで好きで仕方ないあの署長さんほどの感服を与えられるようなものではないこの世を不思議に思いつつ、しかしやはりなんだか暴力と愉悦の関係、その密やかさに思いを馳せるのである。

ちなみに私がこのことを思い出したのは次の文章を読んでからである。これをただの説教として受け取らないために私はこのことを思い出したのかもしれない。

あれ[=佐藤さとるの『だれも知らない小さな国』という書物を読んだときの「ああこれが文学というものなのか、と胸に刻んだあの確信」[163]:引用者]から月日は流れ、いまのわたしは物語が人間を自由へといざなうばかりでなく、紋切り型の価値のなかにとじこめもする諸刃の装置であることを知るようになりました。その原因はどのあたりにあるのかというと、あなた[=須藤岳史:引用者]の手紙の、
物語を紡ぐとは、エピソードに接続詞を与えることです。接続詞が生み出すのはまとまり同士の関係であり、その関係が時間の流れのなかに立体的な家を建てます。考えてみれば、私たちが「現実」と呼んでいるものもまた、かなり主観的な取捨選択を経て組み立てられたかりそめの家だということもできますね。
のくだり、まさにこの接続詞がくせものだと睨んでいます。そして接続詞がつくりだす物語特有の整序性、体系性、超越性といった力にいかにして抗うかを、ことあるごとに考えてみるのです。
こう書くと、あなたはいわゆる物語批判にまつわる言説を想起するかもしれません。けれどわたしは、物語というものがその秩序体系におさまらない生の過剰性をとりこぼすといった話をしたいのではなく、むしろその逆、すなわち、個々の生というものがちっぽけで、貧弱で、半端であることを無視して、それらに豊かな陰影を与えようとする知の欲望をうさんくさく感じるのです。
もっと平たくいえば、自分の周囲に存在するさまざまな苦しみや悲しみを思うとき、人間のいとなみをうかつに物語に仕立てることは、犬死にした命に英霊の箔貼りをして安堵するのに等しいのではないかといった疑念を抱くのです。
いえ──これでは抽象的すぎてなにも伝わりませんね。もっと正直に書きましょう。わたしはかつて自分が病を得た経験から、戦争、災害、事故、暴力などに遭いながら生きのびた人が、みんな死んだのに自分だけが助かったことに対して罪悪感を感じてしまうように、いま自分がこうやって生きていることにはっきりと後ろ暗い感情を抱いています。そして、わずかな幸福しか得ずに死んだ人たちの顔がふとした折にちらつき、物語という装束によって人間の実存を嘉することにやましさを感じてしまうのです。
もしかすると、わたしの言っていることは異常なのかもしれません。そもそも物語を読むとは他人の人生に興味をもつことで、これは自分のためにではなく他人のために時を費やす寛容さに通じています。このシンプルな原点にわたしは立ち返るべきなのかもしれません。けれどもいまのわたしは、たとえあなたの書くようにわたしたちが意味を探してしまう生き物だったとしても、見つけた意味をそのたびに手離すのです。かつて物語に生かされたわたしが、物語とはぐれて死んだものたちのために、意味ってほんとに必要なのだろうか、物語ってそんなに大事なのだろうか、と怒りに震えながら。

『なしのたわむれ』163-165頁

私はもしかすると、この怒りを愚弄しているのかもしれない。ただ、それを愚弄することを楽しんでいるわけではなく、私が楽しんでいることが「愚弄」に当たることを感じつつもなお、やはり署長さんにおける毒もみのような魅力を感じざるを得ないのである。私は。「うまい物語を仕上げ」ることに。

これは言うなれば怠惰なのだが、それとは別の見方も可能である。それは他者に取り憑かれすぎないように、引き摺り込まれすぎないようにするために「うまい物語を仕上げ」るしかないという見方である。これはたしかに自己正当化かもしれないが、それで批判しきれるとと信じるのは純粋に過ぎる。もちろん私はそのことを批判する刀を持っていないが、いや、刀を抜けないが、動けなくなる、生きていけなくなる、そのことを経験してから話しなボーイ、とは思う。いやむしろ、自らの幸せを感じられないからといって他人の不幸を軽く見るのはやめなさい、と思う。かもしれない。

最近、『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出文庫)を読み直しているのだが、著者の千葉雅也は対談のなかで次のように述べている。

彼ら[=「レヴィナスやデリダ」:引用者]は自分が能動的にやるのではなく、他者からメッセージが届いてしまう、あるいは憑依されてしまう、という言い方をします。憑依はフランス語で”オンテ”と言いますが、我々はオンテされて動いている、他者の方にイニシアチブがあるんだ、というわけです。どんどん他者につながり、他者に対する責任、他者のつらさを無限に引き受け、共有する。ある意味で僕の本[=『動きすぎてはいけない』:引用者]は、そういう"引き受けすぎ"を、「接続過剰」と呼び、注意を喚起した。「つながりすぎ」の状態を、どこかで意味もなく放り出してしまうことを、ドゥルーズは「非意味的切断」と呼んでいますが、それを「接続過剰」に対置させました。「接続」というと、ネットの「つながりすぎ」に焦点を当てて読まれがちですし、もちろんそれもあるのですが、そういう他者論の背景を念頭においています。

『思弁的実在論と現代について』155頁

私は別に他者論の背景を念頭においているわけではないが、「引き受けすぎ」の問題はかなり昔から考えている。それがここで小津と千葉を接続した理由である。とも言える。ただ単に最近読んでいる本の中から接続された、されちゃっただけなのかもしれない。

適当にツギハギしただけだから読みにくいったらあらしないと思うが、今回はこれくらいで許していただきたい。

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