なんというか私は、うまい物語を仕上げたとき、その強引さ、暴力を感じつつ、しかしそこに底知れぬ愉悦を感じもする。このことが毒もみが好きで好きで仕方ないあの署長さんほどの感服を与えられるようなものではないこの世を不思議に思いつつ、しかしやはりなんだか暴力と愉悦の関係、その密やかさに思いを馳せるのである。
ちなみに私がこのことを思い出したのは次の文章を読んでからである。これをただの説教として受け取らないために私はこのことを思い出したのかもしれない。
私はもしかすると、この怒りを愚弄しているのかもしれない。ただ、それを愚弄することを楽しんでいるわけではなく、私が楽しんでいることが「愚弄」に当たることを感じつつもなお、やはり署長さんにおける毒もみのような魅力を感じざるを得ないのである。私は。「うまい物語を仕上げ」ることに。
これは言うなれば怠惰なのだが、それとは別の見方も可能である。それは他者に取り憑かれすぎないように、引き摺り込まれすぎないようにするために「うまい物語を仕上げ」るしかないという見方である。これはたしかに自己正当化かもしれないが、それで批判しきれるとと信じるのは純粋に過ぎる。もちろん私はそのことを批判する刀を持っていないが、いや、刀を抜けないが、動けなくなる、生きていけなくなる、そのことを経験してから話しなボーイ、とは思う。いやむしろ、自らの幸せを感じられないからといって他人の不幸を軽く見るのはやめなさい、と思う。かもしれない。
最近、『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出文庫)を読み直しているのだが、著者の千葉雅也は対談のなかで次のように述べている。
私は別に他者論の背景を念頭においているわけではないが、「引き受けすぎ」の問題はかなり昔から考えている。それがここで小津と千葉を接続した理由である。とも言える。ただ単に最近読んでいる本の中から接続された、されちゃっただけなのかもしれない。
適当にツギハギしただけだから読みにくいったらあらしないと思うが、今回はこれくらいで許していただきたい。