哲学はどうして「気軽」なのか

この文章は少し前に書いた「私が考えたい100個の問い」(https://note.com/0010312310/n/n4b73c014d91d?sub_rt=share_pw)の八番目の問い「哲学はどうして気軽なのか」についてあれやこれやと右往左往していたときの文章である。別に投稿する用に書いていないので見苦しいところもあると思うがあまり修正せずに出そうと思う。ちなみにこれは私のマガジン「日記」のいつの日か忘れたがどこかにある文章群である。最後に感想とかも書こうと思う。


8→哲学はどうして気軽なのか

いい問いだが難しい問いだ。私は哲学なら一日にかなりの程度やっても疲れない。文学や美学はそうではない。

だからこれは実は「疲れる」ことに対する、特に思考における「疲れる」に対する問いであると考えられる。

だからこの問いの難しさは、少なくともその一つは、「疲れる」が思考だけでなく身体、生活によるものであることが大いにあることである。つまり、それら、思考だけが純粋に存在することはあり得ないからである。

文学の疲れというのは、なんだろう。重さみたいなものである。鈍重さ、みたいなものである。身体が重いとか、空気が重いとか、そういう疲れである。

ただ、ここでの「文学」というのはいわゆる純文学である。

あと、「気軽」というのは「読み始めるのが気軽」ということであると思う。文学は読み始めるのに勇気がいる。哲学はやる気くらいでいい。気概。

美学はなんというか、色々な経験を駆けめぐる、そういう爽やかさを伴う疲れを持っていると思う。ランニングに出たら疲れるが爽やかだろう。しかしランニングに出るのは気が乗らない。「気軽」さがないというのはそういうことである。

科学はなんというか、整理整頓の疲れに似ている。なんというか仕事的な疲れと言ってもいいかもしれない。だからその「気軽」じゃなさというのは仕事に行きたくない気持ちに似ている。

疲れることはしたくない。それが人情だろう。進んで疲れたい人などいない。後に何かが得られるからこそ疲れても仕方なくすることを選ぶのである。そうではない場合は選ばれないだろう。少なくとも何かが得られるがゆえになされていることは。しかし、哲学はそういうことではないのである。もちろん「哲学」と言っても哲学者の哲学を知ることは何かを得ることに近い。しかし、哲学しているのを見て自分もしてみようとすることは何かを得ることではない。何かが得られることではない?と言われると困るがそういう感じではない。私にとっては。

疲れる順で言えば、すごく雑な整理だが、文学>美学>科学>哲学、みたいになる。で、この量化を支えるために何か考えるとすれば、より全体的になっていく気がする。文学が最も全体的で哲学が最も部分的である。本当にそうか?哲学は全体的な気がする。

ただ、文学は全体的だ。しかも重力のメタファーで語られるような、つまり世界的なのである。

ああ、哲学は世界観的だから疲れないのか。世界自体は軽くなっているから。

いや、一直線にするのは無理がある。とりあえずそれぞれの疲れを考える必要がある。

美学が少し違うかもしれない。これまでの実践を受容する仕方が変わるのだ。美学によって。だから実践の数は増えていく一方である。だから徐々に疲れやすくなるのかもしれない。だからランニングとは違う。いや、ランニングが仮に「走る力×走る距離」で「走る力」が「1,1/2,1/4,1/8……」みたいな感じになるものだとしたら美学は別に「走る力」じゃないから、単純に「走り方」みたいなものが増えるのが基本だから上で言ったのは間違っている。まあ、実践と実践を走り抜けていくというのはそうであると思うが。

まあ、簡単に言えば、美学は「走る」のであり、科学は「整理する」のである。文学は「居る」?かな。そう思うと哲学って別に何もしていない。全体が変わるからもはや何も変わっていないのと変わらない。もちろん、言動から変化を慮ることはできるがそれはできるだけでそれが真実かはわからない。し、大して興味がない。私は。

難しいなあ。とりあえずご飯の時間だからご飯を食べよう。

一つだけヒントというか手がかりというか、そういうものを示しておくとすれば、福尾匠の議論が手がかりになると思われる。

われわれは頭を使っているだけの人間を頭でっかちだと言うし、口だけの人間を信用しないが、かといってとにかく体を動かせばいいのでもない。'実践はその本質からして能力の複数性を含意している'のであり、ひとつの能力への固着が世界を抽象的にし、抽象的になった世界でひとは、実践をそれより上位にある「理論」の適用先として考えるようになる。つまるところドゥルーズにとって能力論とは、そうした理論と実践、抽象と具体のヒエラルキー的な分割に批判的に介入するためのトポスであったのだ。彼の能力論の変遷を辿ることは、彼が実践について、ひいては哲学的実践についてどのように考えてきたのかということの指標となるだろう。
このとき最大の標的となるのは、哲学の歴史において知性、悟性、理性、思考などと呼ばれてきた知的能力の地位だ。なぜならこうした能力だけが他の諸能力の地位を理論の名のもとに差配するからであり、だからこそ『純粋理性批判』によって初めてたんに理性を用いるのではなく批判的検討の対象としたカントが、ドゥルーズが自身の能力論を作り上げるための特権的な対話者となる。

『非美学』44-45頁

ではご飯を食べてこよう。

食べた。

とりあえずここで重要なのは「他の諸能力の地位を理論の名のもとに差配する」ものとしての「知的能力」、そしてその歴史としての「哲学」である。私が哲学に「気軽」さを感じるのは私が「差配する」ことの前提となる「他の諸能力」の<総覧>を「世界観」みたいなものとして考えているからかもしれない。もちろん、私の考える、いや、考えているらしい哲学とここでの「哲学」、そしてこの本で探究されていると思われる<哲学>というのは別物である。しかも別に私は「哲学」にも<哲学>にも与する気はない。ただ、参照として<哲学>に触れておくことは価値あることかもしれない。福尾は次のように言っている。

引用しようと思ったがすごく長い文章を書かなくてはならない気がしたのでやめておこう。ただ、私と福尾の間にある想像的な連盟性を確認してはおきたい。仲間に引き入れるためではなく私が考えているらしいことを明らかにするために。

彼[=ドゥルーズ:引用者]は哲学を'<概念>を創造する'実践だと定義する。何かを創造することが変化をもたらすことであるなら、哲学はおのれの実践とおのれの変化を結びつけるような、内的な論理を必要とするはずだ。というのも、変化を外的な原因や目的に結びつけたとたんに、変化そのものにポジティブな意味を与えることができなくなるからだ。まず原因や目的を置いてからでしか変化を考えない思考(決定論、目的論)にとって、変化は出力を待っているあいだ眺めさせられる”now loading“の画面以上のものではない。したがって創造が変化をもたらすものであるなら、ひとりの哲学者においてであれ哲学史においてであれ、創造される概念による哲学の変化ないし多様性をポジティブに捉えること、つまり原因や帰結に照らした外側からの意義づけを超えて変化そのものの意義を捉えることが必要になる。

『非美学』12-13頁

私はあんまりドゥルーズによる哲学の定義の内実を知らない。(定義自体は知っている。)だから正直、それに多大な影響を受けつつそれを洗練しようとする福尾の<哲学>についてもあんまり知識がない。まだ一章しか読んでないし。ただ、私と福尾に連盟性があるとすれば、「原因や目的を置いてからでしか変化を考えない思考(決定論、目的論)にとって、変化は出力を待っているあいだ眺めさせられる”now loading“の画面以上のものではない」というイメージを私も持っているからである。言い換えれば、「変化を外的な原因や目的に結びつけたとたんに、変化そのものにポジティブな意味を与えることができなくなる」という問題意識、言い換えれば「変化そのものにポジティブな意味を与える」ことを目指すということを私も(おそらく福尾ほどの情熱はないにしても)持っているからである。

ただ、ここまで熱く書いたのに思っているのは、私の哲学に対する「気軽」さというのは福尾のそれとは相容れないのではないかということ、そして「他の諸能力の地位を理論の名のもとに差配する」ものとしての責任感とも相容れないのではないかということである。

うーん、難しいなあ。特定の人にしか響かない比喩だとは思うが、『NARUTO』のなかでの写輪眼のような「気軽」さが哲学にはある。私は基本的に哲学も文学も「目借り」だと思っている。(「蛙の目借り時」という晩春(だったと思う)の季語があるが、ここでは特に関係はない。)だから着脱の容易さという意味で哲学は眼鏡的で文学はコンタクト的なのかもしれない。あと、すごく個人的なことだが私はコンタクトが怖くてずっと眼鏡をしているのでその意味でも個人的にはこの比喩はぴったりである。

で、こうなると美学と科学が残るのだが、この、残ったものとしての美学が福尾と近い気がするのだ。福尾は「非美学」について次のように述べる。

「非美学」という語は、直接的には『哲学とは何か』結論部における「非non」の議論を参照して考案されたものだ。そこでドゥルーズは、哲学、科学、芸術という三つの分野はそれぞれの「非」として異なる分野と接触し、そこで「局所化不可能な干渉」が起こる」と述べている。平たく言えば分野Aが分野Bに与える影響は、分野Bに固有のしかたで把握されるのでそこには相互的な関係はなく、つねに互いにすれ違い続けるということだ。哲学は科学に触発されて<関数の概念>を作り、芸術に触発されて<感覚の概念>を作るが、作られた概念は科学が作る関数や芸術が作る感覚以上に抽象的なものでなく、その実践性=創造性において劣るわけでもない。芸術が作る<関数の感覚>や科学が作る<概念の関数>にしても同じことだ。したがって三つのうちひとつの分野が他のふたつの分野に触発されることで起こる「干渉」は六通りのパターンがあるがーーしかし、このような俯瞰に何の意味があるだろうかーー非美学はこのうち<哲学にとっての芸術>だけをあつかい、芸術にとっての哲学や哲学にとっての科学がどのようなものであるのかといったことについて主題的にあつかうことはない。

『非美学』22-24頁

私にとっての美学はレトリックのパターンのようなものである。レトリックがそれぞれの実践についてどういうふうに反復しているか、そういうパターン認識のようなものである。だから、おそらく「感覚の概念」に近い気がする。いや、「関数」に近いか。

近づこうとして近づけないのはおそらく、私が「芸術」(この中に私は「文学」があると思っている。いや、思うことにしている。ここではとりあえず。)についても「科学」についてもあんまり知らないからである。だから、福尾は「何の意味があるだろうか」と言っているが「六通りのパターン」がある「干渉」の他のパターン、列挙すれば「関数の概念」「関数のイメージ」「概念のイメージ」「概念の関数」「イメージの関数」のパターンのどれも実感としてわからないから「イメージの概念」を含むどれかを擁護(と言うと陣営性が強すぎるがとりあえずそれを強めておこう。)しようにもなにを擁護しているのかがわからないのである。

とりあえずいま思い出したのはヴァレリーの哲学について伊藤亜紗が次のように言っていたことである。

社会的・存在論的な問いと修辞的・内在的な問いとが交差する領域、これを問うのは、「芸術哲学」の仕事である。

『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』19頁

なんか私のレトリックへの嗜癖とも言えるようなこだわり(と言えばかっこいい感じがするがただ単に偏っているだけであると思う。とりあえずかっこよく言わせてもらおう!)がこの本からの影響によって形作られている感じがしたんだけど、別にそんな感じでもなさそうだった。

疲れに戻るかあ。よくわからなくなってきたし。疲れるだけならほとんど読まないなんてことは起こらないだろうから疲れるしその疲れがある意味でのトラウマ性を持っていることを重要であると考えてみよう。

別に食わず嫌いではない。おそらく二つのトラウマ性?よくわからないがそういうものがあると思う。一つはイメージの連鎖が私では止められないというトラウマ、もう一つは形式化への志向性が抑えられないというトラウマ、この二つがあると思う。で、この二つのトラウマが「気軽」とは正反対の事柄を呼び込むのである。「鈍重」である。なんというか、渋滞的な感覚があるのだ。二つのトラウマは。

無限自体は救いでもあるし苦しみでもある。有限化の仕方が、いや、有限化が完了しないことが苦しみであり、それから抜け出すことが救いなのである。このように考えてやっと苦しみと救いはそれぞれとして自律するのだ。

ここには実は福尾が次のように述べていることが深く深く響いている。

さて、本論に移る前に、哲学の実践性と哲学にとっての芸術の他者性の両立というテーマ、そして非美学という観点の背景にあるもうひとつの論脈について述べておこう。それは東浩紀の『存在論的、郵便的』(一九九八年)、平倉圭の『ゴダール的方法』(二〇一〇年)、そして千葉雅也の『動きすぎてはいけない』(二〇一三年)によって形作られている。これらここ二五年ほどのあいだに日本で刊行された三冊の本は、ある共通のテーマをもっているように思われる。あらかじめ圧縮した言い方をしてみるならそれは<他者のポジティビティ>と<実践における有限性のポジティビティ>をカップリングさせるというテーマだ。

『非美学』26頁

私は平倉の本を読んだこともなければ文章を読んだこともない。東のものもそれを評した文章をいくつか読んだだけであり、東自身のものは『ゆるく考える』くらいしか読んだ記憶がない。し、『ゆるく考える』もほとんど何も覚えていない。千葉のものは既刊のものは小説以外はぜんぶ読んでいる。さて、そんなことはいいのだが、私が上で書いたことを繰り返して引用しよう。

無限自体は救いでもあるし苦しみでもある。有限化の仕方が、いや、有限化が完了しないことが苦しみであり、それから抜け出すことが救いなのである。このように考えてやっと苦しみと救いはそれぞれとして自律するのだ。

ここで考えたいのは「有限化の仕方」と「有限化が完了しないこと」の関係である。「有限化の仕方」というのは「完了」した「有限化」を想定することによって可能な思考であると思われる。それに対して「有限化が完了しないこと」はまさにその想定が不可能な地点で考えている。だから「いや、」と否定されているのである。このことは次のような福尾の文言と繋がるだろう。いや、繋がることを私は願っている。(もうまとめられないと思っている。)

芸術という他者との出会いと哲学の自律性の両立は、<の>における圧着と<と>における剝離を同時に肯定することとしてあらわれるだろう。<触発の自由>と<仕事の自律性>の両立は、ドゥルーズと芸術の関係においてこのように言いなおすことができる。

『非美学』22頁

ここでの「<の>」の議論と「<と>」の議論の文脈も確認したほうがよいのだろうけれど、私はむしろ私の二つのトラウマ(もう「トラウマ」と呼ぶのが既定路線みたいになっているが別に既定路線ではない。)を確認しよう。ごめんなさい。

一つはイメージの連鎖が私では止められないというトラウマ、もう一つは形式化への志向性が抑えられないというトラウマ、この二つがあると思う。で、この二つのトラウマが「気軽」とは正反対の事柄を呼び込むのである。「鈍重」である。なんというか、渋滞的な感覚があるのだ。二つのトラウマは。

あれ、なんとなくまとまるかなと思っていたけれど全然まとまりそうにない!終わった!もう無理だ!今日は撤収!ただ一つだけ言っておくなら、私は「<と>」に向かうことから「<の>」に留まることへ、「<仕事の自律性>」に向かうことから「<触発の自由>」に留まることへ、向かっている、いや、向かおうとしているのだと思う。それが私にとって「同時に肯定する」ことなのである。おそらく。このことに逆はあり得ない。少なくとも私には。「<触発の自由>」に向かうのではなく「<仕事の自律性>」に留まろうとする、そんなことはありえない。そんな課題があることすらわからない。ただこの「わからない」がただの知識不足ゆえであることがここでの痛手だったのだろう。おそらく。

さて、この考察というか、うだうだ言っているのは次の問いに答えるためだった。

8→哲学はどうして気軽なのか

結局私は哲学しかできない。し、この「哲学しかできない」をそれとして理解することもできないくらいに哲学的なのである。この「哲学的なのである」というのは自己肯定でもなんでもない。ただの事実確認である。いや、哲学的ですらないのだ。他の仕方を知らないのだから。もしかすると文学も科学も美学も「他の仕方」を教えてくれるから疲れるのかもしれない。文学が特に疲れるのはなぜか、それはよくわからないが。ここまでにヒントはたくさんあると思うが……。

今日はもう疲れたので眠ろうと思う。お風呂に入って布団に入って。もし元気があれば文学、軽い文学を軽い気持ちで読み始めようと思う。自分よ、ちゃんと騙されろよ!

感想

 さて、ここまで読めている人は相当すごいと思う。いつも以上にまとまりのない文章だからである。いくつか考えたことを書こうと思う。
 その前に一つ、私は最後に書いたからちゃんと文学を読んだ。宮沢賢治の「革トランク」という文学を。これを読んだあと私は私の恥ずかしい、醜悪な自らを書き残した。そういう勇気というか、そういうものを得た。しかし、これが私が恐れる純文学だったのかはわからない。いや、むしろ「恐れる」ようなものを私は「純文学」と呼び、「ここでの『文学』というのはいわゆる純文学である」と言っているからこそ「文学」はもっとも「疲れる」ものになっているのではないだろうか。
 まあ、そういう面もあるだろうが別に「純文学」と呼ばれるものを読んで「疲れる」経験をしたから上の文章を書いていると言ったほうがよいだろう。そのように言わないほうが面白いが。それに、仮に私が「文学」を「疲れる」ものとしての「文学」である「純文学」に限定しているとしても「疲れる」が何であるかがわからないというのは変わらない。それでは話は振り出しとまではいかないがぐるぐる回っているだけである。
 さて、これは考えたことではない。いま思いついたことである。それはそうとして、考えたことを書こう。私は自分で書いた次の二つの文章を重要な手がかりにしていた。もしくは手がかりにしようとしていた。

おそらく二つのトラウマ性?よくわからないがそういうものがあると思う。一つはイメージの連鎖が私では止められないというトラウマ、もう一つは形式化への志向性が抑えられないというトラウマ、この二つがあると思う。で、この二つのトラウマが「気軽」とは正反対の事柄を呼び込むのである。「鈍重」である。なんというか、渋滞的な感覚があるのだ。二つのトラウマは。

無限自体は救いでもあるし苦しみでもある。有限化の仕方が、いや、有限化が完了しないことが苦しみであり、それから抜け出すことが救いなのである。このように考えてやっと苦しみと救いはそれぞれとして自律するのだ。

 ここで一つ、極めて図式的な整理をしよう。まずは二つ目の文章を少しだけ組み替える。「有限化の仕方」がそれとして考えられるのは「有限化が完了しない」状態ではないからである。そして、「有限化が完了しない」ことが「苦しみ」であり、それから抜け出すことが「救い」であるとすれば、「有限化の仕方」というのは「救い」の「仕方」であることになる。(たしかに「仕方」というのは能動性を発揮できる、もしくは主体性を発揮できることが前提になっているかもしれないが、正直に言うとここではその問題を扱う余裕はないのでここではそれを指摘するに留めよう。もしかすると帰ってくるかもしれない。)このことは極めて豊かな可能性を持っていると私は思うが、ここでは図式的な整理に留めよう。
 「無限」とか「有限化」とかはとりあえず置いておくとすれば、この「苦しみ」やら「救い」やらはA→Bという変化でありA(→)が「無限」の「有限化」が「完了」していないことでありBが「完了」していることであると考えられる。仮にこのことを強調するとすれば、「苦しみ」というのは「A→」という状態であると考えられる。それに対して「救い」というのは「A→B」かつ「無限」の「有限化」が「完了」していることであると考えられる。ここで強調されているのはBが生まれて初めて「A→B」という形式自体も生じているということである。このことを裏返して「無限」の定義に用いるとすれば、「無限」は「A→」の「→」であると考えられる。そして「有限化」は「A→」を「A→B」にすることであると考えられる。言い換えれば、Bで「打ち切る」ことであると考えられる。このように考えるとすれば「完了」するというのはこの「する」を時間の形式で理解することであると考えられる。
 で、一つ目の文章を見てみよう。

おそらく二つのトラウマ性?よくわからないがそういうものがあると思う。一つはイメージの連鎖が私では止められないというトラウマ、もう一つは形式化への志向性が抑えられないというトラウマ、この二つがあると思う。で、この二つのトラウマが「気軽」とは正反対の事柄を呼び込むのである。「鈍重」である。なんというか、渋滞的な感覚があるのだ。二つのトラウマは。

 ここで言われている「二つのトラウマ」は「無限」の「有限化」の「完了」の二つの失敗であると考えられる。前者、すなわち「イメージの連鎖が私では止められない」というのは「A→B」にもう一度「→」を見てしまうということであり、さらに言えばどれだけ続けようと、例えばこの順番のままXまで行こうと「→」が付けられるし、それを「打ち切る」ことができないという「トラウマ」であると考えられる。後者、すなわち「形式化への志向性が抑えられない」というのは少しややこしいが「志向性」をとりあえず保留するなら上で言った「時間の形式」を「完了」も含んで「苦しみ」もしくは「無限」に当てはめ続けたことによる「無限」や「苦しみ」の軽化によって生の手応えのようなものを失うかもしれないという、もうすでに失っているという「トラウマ」である。後者はややこしいが、簡単に言えば「同じことの繰り返し」にし続けてしまうのではないかという、そしてそのことによって生が軽くなりすぎるのではないかという「トラウマ」であると考えられる。ただ、このことは実は前者とも関係が深く、このような「同じことの繰り返し」になってしまうのではないかという恐れ、「トラウマ」があるから「→」が付け加えられることを「鈍重」だと思いつつ「渋滞」だと感じつつ、それでも解決してやろうとは思い切れないからこそ前者のうだうだしたような「トラウマ」があるのである。言い換えれば、「→」が付け加えられることは「打ち切る」可能性を残すものであるからこそうだうだ続きを見ることをしているのである。
 さて、今日はこれくらいにしよう。「トラウマ」と「恐れ」の関係が重要なのかもしれない。他にも書きたいことはあったがとりあえずここで「打ち切る」ことにしよう。思ったよりも書いてしまったし、書けてしまった。それは少しだけ嬉しい。

花たちはなんだか嬉しそうで 何より

『Cats & Dogs』

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